『スピラレ スキップト』

一回飛ばしの批評です。 2013年、渋谷にある映画美学校にて開講された「批評家養成ギブス第二期(主宰:佐々木敦)」の修了生有志による、批評同人誌『スピラレ』のWEBサービスw http://spirale.hatenablog.com/ twitter@spira_le

【連作批評】「障害者と旅する」第十八回 textたくにゃん

ゲンロン批評再生塾第二期「道場破り」(第一回)

 

  「いま、ここ」から「いま、そこ」へ

 

 上北千明の「擬日常論」は、連載中の漫画2作品という最先端カルチャーを主な材料に、柳田國男から東浩紀までの近現代思想というスパイスをふんだんにまぶしながら、課題テーマ「昭和90年代の批評」で意識されている「現代が昭和の延長にある」という命題に対して、現代は「擬日常」(「日常の皮を被った非日常」)であるという主張をこねくりまわし、<自分の生きている「いま」「ここ」の時間の外側に、まったく異なる世界がありうるのだということ、日々感じている些細な不安が、なんて小さなものであるか>を明らかにする、まるで新しくミシュランの星が付く料理店の看板メニューのように思わず頬が落ちそうなほど完成度の高い批評文だ(実際、ゲンロンのバックアップによって商業誌への掲載が約束されたことを鑑みれば、あながち的外れな例えではないだろう)。

 美味しい料理がこの世に誕生したことは喜ばしい。料理人は大変な努力をしたに違いない。しかし、それがミシュランの星が付くような料理店の看板メニューであったとしたら、私たちの多くにとっては敷居が高い。もっとも、コンビニでミシュランの星が付いたラーメン店のラーメンを買って食べることができるように、上北の批評文はネット上で誰でも無料で読める。幸いなことに、私たちは大変に優れた社会に生きているようだ。いや、違う。ミシュランの星という「非日常」が、コンビニ商品という「日常の殻を被っている」のだから、このラーメンは上北のいう「擬日常」の象徴ではないか。であるならば、注意が必要である。私たちの世界には、<「いま」「ここ」の時間の外側にまったくことなる>ラーメンがあるはずだからだ。

 すぐに思いつくのは、ミシュランの星が付かない街中のラーメン屋で提供される750円前後のラーメンである。だが、それよりも消費されているのは、スーパーマーケットで売られているプライベートブランドの75円のカップ麺ではないだろうか。コンビニで売られているミシュランの星がついたラーメン店のラーメンは、トリュフ入りを謳って価格は何と6倍以上の498円である。実際のところ、私たちの多くは75円のカップ麺を基本とした生活を送っているはずで、例えコンビニで売られているとしても498円のラーメンを口にする機会は乏しい。要するに、上北の批評文の内容を肯定することは、それを取り巻く環境を批判することに直結する。それは、上北の批評文とはまったく異なる批評文の存在を明らかにするということを意味している。そんな批評文は、ゲンロンのお墨付きのようなレッテルも無く、ネットの海を揺蕩っているわけもないだろう。

 

 それでは、どこにどんな批評文が産声を上げているというのだろうか。上北が批評対象として取り上げた漫画2つのうちのメイン作品、『花と奥たん』の主人公である「奥たん」は、横浜のはずれにある「うるわしが丘」という郊外の町に住んでいた。上北は、この町が昭和の始まりとともに発展した「田園都市線」「東急東横線」「JR南武線」の近くに存在するという設定であることに着目して議論を展開している。そこでまず、「横浜のはずれ」という地理的条件へのこだわりを踏襲したい。すると、横浜市旭区上白根町という「横浜のはずれ」に、「ひかりが丘」という大規模団地があることに気が付く。「うるわしが丘」と同じ、「~が丘」というネーミングだ。最寄駅は、相模線「鶴ヶ峰」駅とJR横浜線「中山」駅である。相模線は1921年(大正10年)に開業しており、ほぼ昭和の始まりと重なる(JR横浜線は1908年(明治41年)開業なので、残念ながら昭和の始まりとは言えないが)。

 そんな「ひかりが丘」の西ひかりが丘商店街に、「カプカプひかりが丘」という喫茶店がある。ただの喫茶店ではない。ここは、1997年に「知的障害者」の地域作業所として開所し、その運営方針や人の魅力に注目が集まっている。今年の5月1日には『ザツゼンに生きる 障害福祉から世界を変える カプカプのつくりかた』というA4判の冊子が刊行されたほどである。この『ザツゼンに生きる』には、所長の鈴木励滋による「カプカプのつくりかた」という「カプカプ」の特色紹介文や、似顔絵のついた利用者一人一人の名鑑、開店16周年トークなど雑多なコンテンツが収録されている。批評と銘打たれている文章としては、劇評家・編集者 落雅季子の劇評があるくらいで、それよりも目立つジャンルは5つもあるコラムだろう。だが、この劇評で落が取り上げている演劇が興味深く感じられる。たかだか見開き2頁で2000字程度の文章が、一体どんな魅力を放つというのだろうか。

 

 「老いて登る青春の「山」――OiBokkeShiを観て」と題された落の劇評の批評対象は、岡山の劇団「OiBokkeShi」の新作『老人ハイスクール』だ。「廃校になった小学校を老人ホームに、観客を見学者に見立てて、」「新米介護士と先輩介護士」に導かれて「部屋を移動しながら観劇する」スタイル。落の描写が冴えるのは、おかじい(岡田忠雄)という名の88歳の役者が活躍する次の箇所だ。

 今回のおかじいは、校庭の段ボールハウスに住んでいる元ホームレス役だった。彼が新米介護士を、初恋の「みっちゃん」と間違えてはしゃぐ姿は、チャーミングでみずみずしい。アドリブらしき奔放な台詞も豊富だ。

 このシーンには、劇団名に込められているコンセプト「老い」と「ボケ」と「死」が凝縮されている。実は、みっちゃんは「もうこの世にいない」設定なのだ。落は、おかじいという役者が「人生と演劇の境界」を「薄」めつつ生きている姿に、「畏怖すら覚える」。その感覚は、2頁の間に掲載されている舞台の様子を写した3枚の写真の効果も相まって、読者である私たちにもリアリティを持って伝わってくる。

 それだけではない。この演劇には、『ザツゼンに生きる』全体に通底する、「カプカプ」の理念が体現されている。というのも、「老い」「ボケ」「死」は、「カプカプ」の利用者である「知的障害」と親和性があるからだ。「知的障害者」は、だいたい動きがとろいし、考えていることが意味不明だし、寿命だって長くない、と、思われている。本当はそんなことはないし(長くなるので理由は割愛する)、そうだとしても、それを受け入れられない環境の側に問題がある。だがそれは、箱物行政の推進を意味しない。そこで、「カプカプ」のように「雑然」とした場所を作ることが、一つのオルタナティブとなる。

 鈴木は、「カプカプ」のような場を「ゆるしゃば」と呼ぶ。「ゆるい」「こんなのじゃない世の中」という意味が込められている。そこで、彼は「障害」の乗り越え方として、「「違いをなくす」のではなく、「関係を変えていく」」ことを目指している。そんな「ゆるしゃば」作りのためには、「OiBookeShi」の主宰者・菅原直樹がコラム「演劇とロックンロールと認知症」の中で述べているように、「今この瞬間を楽しめる」ことに気付く必要があるだろう(流行のマインドフルネスの話を出すと胡散臭がられてしまうかもしれないが、端的にいえば“集中力”が大事だという考え方と通じるものがある)。演じることで関係性を変えるという試みは、「障害者」、いや、私たちの人生の中に、生きがたさと向き合う勇気を与えてくれるのだ。

 

 繰り返しになるが、上北の「擬日常論」は、<自分の生きている「いま」「ここ」の時間の外側に、まったく異なる世界がありうるのだということ、日々感じている些細な不安が、なんて小さなものであるか>を教えてくれるものだった。確かに「いま」、「ここ」とはまったく異なる世界がある。『ザツゼンに生きる』所収コラム、「開放し、抵抗する「そこ」なる世界へ」の中で最首悟(著書に『星子が居る』)は、次のように述べている。

 「ここ」は確定した場所であり、「あそこ」は人々が漠然とお互いに了解している場所である。「そこ」は確定も了解もされていない狭間で、ある人にとってはっきりしていても、他の人には見えなかったりする。しかし逆にその「他の人」が「そこ」と思っているところが「ある人」にはわからないかもしれない、そのような場所である。
(筆者中略)
それをそれとして名指しすることはできないが、にもかかわらず私たちが求めているという、万華鏡的であやうい、緊張した混沌の場所を「そこ」とかスペースと呼ぶことにしよう。

最首が「そこ」と呼ぶ、「緊張とした混沌の場所」は、上北の言う<「いま」「ここ」とはまったく異なる世界>であると言える。「そこ」へアクセスする手段として、「演劇性」が有効であるということを唱えているのが、『ザツゼンに生きる』とそこに掲載されている落雅季子の劇評である。

 そんな『ザツゼンに生きる』は、今のところ取次ぎを通さず販売されている。もちろん、WEB版はないし、神奈川新聞に取り上げられたくらいの認知度だ。つまり、『ザツゼンに生きる』は権威性のある商業性ではない。その中で落の劇評は、2000字程度ながら掲載媒体の核心となっている。鈴木は、「カプカプ」のような場が増えることが望ましいと語る。ゲンロンカフェとは方向性が異なるだろう。批評再生塾の開講をきっかけに、批評界隈が活気づき底上げされることはかけがえないし、そこから新しい才能が生まれることは申し分ない。しかし、それと同時に絶えず外部を意識しなければ、何より「雑然」とした場所は増えていかない。批評は、常に外部に立つ孤独な者による営みだからこそ雑多な要素を含み、多くの読者の胸を打つ。

 

 スーパーで売られている75円のカップ麺を食べる日常から、雑然とした街中のラーメン屋で750円のラーメンをすする日常へ。今日も「ひ・ひひょ」っていこう。

(本文:3981字)

【連作批評】「障害者と旅する」第十七回 textたくにゃん

写真における作為/作意(3)

 

  トゥオンブリーの描画技法にみる「越境性」

 

 ドキュメンタリー映画『ぼくは写真で世界とつながる』(マザーバード、二〇一四年)の主人公で自閉症(+中度の知的障害)のアマチュアカメラマン、米田裕二(以下、裕二君)の写真に対する批評を試行する上でこれまで重視してきたのは、彼がデジカメのファインダーすら覗かず被写体を瞬時に切り取る/撮るその技法でした。それは二人の写真家、鈴木理策中平卓馬の方法論と近似しています。それらを、「作為をこめない作意」と呼んできました。それを今回は、アメリカのヴァージニア州出身の芸術家が撮った写真の中に見出していくところから始めて、最終的には写真以外の芸術へ目を向けていきたいと思います。

 「サイ・トゥオンブリーの写真―変奏のリリシズム―」展が、DIC川村記念美術館で開催されています。トゥオンブリーは二十世紀を代表する画家・彫刻家として、特に自由闊達な線描画で知られています。昨年、原美術館にてサイ・トゥオンブリー展「紙の作品、50年の軌跡」が開催されましたが、変形された紙に指で直に塗りつけられるアクリル絵具で即興的に描かれた作品群に胸を打たれた人も少なくないでしょう(八〇年代の作品群には、ビートニク詩人からの影響がありました)。本展では、彼の二〇代前半から二〇一一年に逝くまでの六〇年間に撮った一〇〇点の写真の他、絵画や彫刻作品も数点ずつ展示されています。まず目に留まるのが、五〇年代に撮られた写真です。例えば彼が生涯の住処として選ぶことになるイタリアはセリヌンテとアグリジェントのギリシャ遺跡を撮った作品がありますが、光と影の配合が絶妙に感じられますし、打ち捨てられ積み重なっている巨岩の一体一体からは何か声が聴こえてくるような気がします。今述べたことは個人的な感想ですが、これらの写真が二〇代前半という若かりし時期に撮られたことを感じさせない逸品であることは、私よりも彼について詳しい評者たちが認めるところです。そのうちの一人、DIC川村記念美術館学芸員 前田希世子は彼の「写真」と「描画」の連関について、本展の図録の中で興味深い考察をしています。(その内容を紹介する前段に、三行だけ補足説明があります。本展で展示されている写真は六〇年間に撮り溜められた作品ではありますが、実際のところそれらには撮影された年代に大きな断絶があります。五〇年代前半に撮られた一四点を除けば、残りは全て八〇年代以降に撮られた作品なのです。それでは、その空白の期間は何だったのかと言えば、彼はドローイングに熱中していたのでした。)さて、ようやく前田の考察内容をご紹介できるのですが、彼女によればトゥオンブリーが八〇年代に再開した写真の制作方法と、ドローイングの「描画技法」は類似しているようです。というのも、それらの写真の多くは「対象のクローズアップで輪郭はぼやけている」からです。なぜ、「クローズアップ」で撮るのか。それは、そもそも絵を描くという行為が、「手元しか見ることが出来なくなる」という要素を孕んでいることと関係していいます。それは、部分しか見えず、全体が見えないということを意味します。この要素を前田は、「盲目性」という言葉で言い表しています。トゥオンブリーは、この「盲目性」を「写真」に持ち込むために「クローズアップ」で被写体の「部分」を「接写」しているのです。その結果として「輪郭」の「ぼやけ」た写真が生まれます。それは、あえて「全体」を見えなくするということです。なぜ彼は、「描画」と「写真」に「盲目性」を持ち込むのか。それは、そこに「不確定低要素」が入ってくるからです。トゥオンブリーの作品に見られる線描の自由闊達な魅力は、一つここから来ていると考えられます。自らの手に負えない何かと共存してこそ、作品は作家の手を離れて他者の手に届くのでしょう。つまり、彼の写真にも「作為をこめない」という「作意」があるのです。

 ここから、前回までの議論を踏まえて考察していきましょう。鈴木理策の場合、「作為をこめない作意」は「写真の棘」を追求しての結果でした。中平卓馬の場合、それは写真に「匿名性」を宿らせるためのものでした。それらは、トゥオンブリーが写真に「不確定要素」を含ませる意図とも技法面において親和性があったのです。ということは、同様の技法を擁する裕二君の写真にも何か、「不確定要素」が含まれていたのでしょう。それは一つに、京都府八幡市という地元を離れて、「沖縄」の人や風景を撮影したすべての写真に潜んでいると考えられます。なぜなら、自閉症である彼にとって、慣れていること以外のすべてが「不確定要素」だからです。そう考えると、地元の写真を中心とする中平卓馬的な試行/志向と、トゥオンブリー的な試行/志向は真逆のベクトルを孕んでいることが明らかになります。そして、双方の「写真の棘」をも持つからこそ、裕二君の写真は最強なのだと、現段階では結論づけることができるのです。

 ところで、トゥオンブリーの「接写」という技法が、「描画」から発展したという背景に関しては、さらに論じる余地があります。というのも、そこには多様なメディアの越境性が見られるからです。裕二君の写真を、写真論の文脈から逸脱して考察していく時期が、そろそろ来ている予感がします。いや、そもそもあらゆる芸術のジャンルは本来一つだったとしたら、メディアの越境を前提に論じることこそ王道ではないでしょうか。本展に「彫刻」作品が数点展示されていることは述べておきましたが、実はそんな「彫刻」作品を映した「写真」作品がありました。それは、「絵の前の彫刻」(一九九二年)という作品です。それは、犬の絵の前に幾何学的な形象をした彫刻が置いてあるものを、四角いフレームで切り取っただけの写真です。これを見た時私は、彫刻よりも絵が映えていると感じました。その理由は、二次元(絵画)と三次元(彫刻)を二次元(写真)に収めた時には、二次元(絵画)の方が三次元と比して相対的に二次元に馴染むからだと考えます(もっとも、それを前提として改めて三次元の彫刻を見つめると、その魅力も浮かび上がってきたのかもしれません)。驚愕したのはそのあとです。その写真が展示されている位置から百八十度振り返ったところに、そこに映っていた彫刻作品自体が展示されていたのです。そして、その彫刻作品は、そこに存在するというだけで私の目にまず、とても魅力的に映りました。この彫刻とは、「イオニア海のほとり」(一九八八年)です。「イオニア海」とは、地中海とアドリア海の間、イタリア半島ギリシャ半島の間に位置します。考えてみれば、特殊な海に思えます。なぜならそこは、地中海でもアドリア海でもおかしくなかったエリアにも関わらず、そのどちらでもないのです。ここに、「間(あいだ)性」とも呼べる特性が感じられます。そしてそれは、トゥオンブリーが「絵画」と「彫刻」を「写真」に収めたことで浮かび上がってきたことからも、メディアの「間性」をも象徴しているのではないでしょうか。つまり、メディアを越境してこそ作品が魅力的になるということが芸術にはあるのです((一)で言及した鈴木理策写真展においても、ヴィデオ作品が二点あることに触れておきましたが、そのうちの「火の記憶」に映る火の粉、いや、火の玉は写真の「分離」を謳っているように感じられました)。そして、その契機が「写真」にあったということが本論で肝要なところです。「写真」は現像までの時間を抜きに考えれば、瞬間的に完成される芸術と言えます。ところが、一瞬で世界を変えることができる、と言ってしまったならば胡散臭いキャッチコピーに成り下がってしまいます。一瞬で世界は変わらないし、スマホ全盛期の現代は写真大衆化時代でもあります。しかし、第一回で言及した「写真分離派」宣言に倣えば、そんな状況だからこその「写真」があるはずです。言い換えれば、世界とは、あなたにとっての現実です。写真とは、あなたにとっての一枚です。あなたの現実を一枚の写真が変えてくれることがあるとしたら、それが一瞬であったとしてもおかしくはないはずです。そんな一枚の写真と出会う日々を過ごすために、私たちは裕二君の写真の「ほとり」で粘り強く考え続けていきましょう。

【連作批評】「障害者と旅する」第十六回 textたくにゃん

生の芸術を廻って(7)

 

  『子どもたちは未来のように笑う』にみるワークインプログレスという名の胎児

 

 演劇には、本公演とは別に、プレ公演やリーディング公演、公開稽古というものがある。それらは、演劇好きの人にとっては面白く、また、金銭的にも安く観られることから堪らないものだ。しかし、そこまで演劇好きでない人が自発的に観に行くことは少ないだろう。それでは、「ワークインプログレス」はどうか。そもそも、なんだ「わーく・いん・ぷろぐれす」って。普通に英訳したら、「仕事中」となる。確かに、役者も演出家も仕事中だろうよ、それとも普段は仕事意識ないって言うのか?・・・冗談はこれくらいにする。演劇における「ワークインプログレス」とは、「未完成の舞台ですけど、プレ公演のように多少ミスはしつつも真面目にやりますし、本公演よりお安くなっておりますから、何より皆さんの意見を聞いて本公演をより良くしていきたい一心で行いますのでどうかひとつ見て下さい、そんで本公演の内容は変わるかもしれないので今を見逃したら損するかもしれませんよ!」と言った感じである。冗談ではなく、正確な定義などないのだから、一先ずこれを信じて頂くほかない。ウィキペディアにもないのだから。さて、この定義の中で肝心なところは、言うまでもなく最後の部分である。プレ公演と違い「ワークインプログレス」には、〈本公演とほとんど変わらないかもしれないし、本公演と全く違うものかもしれない〉という偶有性があるのだ。この偶有性と似たものが演劇にあるとしたら、「再演」だろう。再演にも、過去の公演と同様のものを目指す場合と、変化が強調される場合があるからだ。しかし、再演には比較できる過去公演の内容があるのに対して、「ワークインプログレス」が比較できる未来の本公演の内容はまだない。この差異は、人生に例えると分かり易いだろう。いわば、再演とは、人がどう死ぬかという問いであり、「ワークインプログレス」は、人がどう生まれるかという問いである。人間が死ぬという事実は揺るぎなく、自明である。その上で人間に出来ることと言えば、どのように死ぬかだけである(それは長い目で見れば、どう生きるかということである)。翻って、再演は、常に過去の公演と比較されることに耐える覚悟を必要とする。一方、人間がどう生まれるかという事実は、そもそも生まれるまで「生まれる」とは言い切れないという、ややこしい話から始まる。分かり易くするために、母体が妊娠したところを想像してみよう。まず、生まれる前に流産する可能性がある。次に、無事に生まれたとしても、生まれたあとの赤ん坊の状態はどうだろう。親に全く似ていないかもしれないし、何か障害を持って生まれてくるかもしれない。つまり、本公演が生まれたばかりの赤ん坊だとしたら、「ワークインプログレス」は、妊婦のお腹の中にいる胎児のようなものだ。翻って、「ワークインプログレス」がどのように本公演に繋がるのかは全く未知数なのである。しかし、そこに一つの命が宿ったことだけは確かだ。「ワークインプログレス」を観に行くということは、妊婦さんを大事にするという姿勢と、非常に近しいのではないだろうか。

 遊園地再生事業団こまばアゴラ劇場の共同制作『子どもたちは未来のように笑う』は、二〇一六年三月に駒場東大前のこまばアゴラ劇場で上演された「ワークインプログレス」である。コンセプト・構成・演出は、遊園地再生事業団宮沢章夫だ。「コンセプト」という役職があることからも分かるが、本作には始めからテーマがある。それは、「妊娠」とか「いま子どもを産むということ」である。構成も明快だ。大きく二つ。前半は、「既存のテクスト(小説や戯曲、エッセイなど)を俳優個々が選び声にして読む」、後半は、「エチュードで作った短い劇」の連続である。まず前半は、舞台の一角に円環を為すように配された書籍に対して、周りを囲んだ十人の役者がカルタ取りをするように行われる。そこでは、十五冊のテキストが、振付の入ったリーディング公演風に読み上げられてゆく。石川達三『僕たちの失敗』に始まり、チェーホフの「三人姉妹」などの古典から、二〇〇八年に芥川賞を受賞した川上未映子『乳と卵』、「玉川病院 院長挨拶」のような非文学的なテキストや、プロ野球の名選手・監督であった落合博満の著書『采配』、はたまたアゴラ劇場の支配人かつ本作にも五人の俳優を送り込んでいる劇団「青年団」の主宰である劇作家・平田オリザの代表的な戯曲『東京ノート』、最後の一冊は佐野洋子『ふつうがえらい』で終わる。これらのテキストは、主にプレ稽古の段階で俳優が持ち寄った書籍の中から選ばれたことが、アフタートークで明かされた。そんなアフタートークの質疑応答では、宮沢のラジオを聴いて観劇に来たという女性から、「多和田葉子の『献灯使』(二〇一四年)に触れていたから、そういった原発関連の表現も期待していたが、どうなのか?」といった質問提起がなされる。それに対して宮沢は、原発事故の後、子どもを持つ母親が西へ行った例に触れつつも、作品の中でそれらをどう表現するのかは別問題であると返答していた。用心深い宮沢のことだ、絶対何か企んでいるがまだ表に出していないだけだと考えられる。むしろ、宮沢が第一に着目したのは、女優の山口智子が女性誌で「子どもを産まない」宣言をしたというニュースだという。それに対しては、役者の中で最年長の松田弘子が、「そのニュースを取り上げることもまた煽りであり、産まなかろうが産みたかろうが本人の自由なのだからそれは声を大にして言うことではないだろう」といったコメントをした。アフタートークのこれらの盛り上がりからも分かるように、「妊娠」とか「いま子どもを産むということ」は大変にホットなテーマであり、その点でも本公演へのフィードバックを重んじる「ワークインプログレス」として行われた本作は、このテーマに適していたと考えられる。

 そうした、テキストを巡る暗中模索の前半から、後半の怒涛の短い劇の連続へ移行する。そこでは、例えば男性役者三人が、『ひよこクラブ』にはこう書いてあったとか、胎児にノイズミュージックを聴かせるのは良くない、などの会話が繰り広げられる劇など、笑いを誘う良くできた短い劇が展開される。だが、肝心なのは明らかに一番最後の短い劇の内容だ。それはシリアスなものだった。バーで若い女性が、年配の女性と若い女性を待っている。やって来た二人が席に着くと、待っていた女性はオレンジジュースを注文しようとするが、年配の女性は「話って何よ」と口を開く。結局、三人とも注文を済ませてから本題に入るのだが、どうやら三人の関係は妹と母親と姉であり、妹は妊娠中であることが分かる。そして、姉は妹から既に話の内容を聞いているが故に、「早く言いなよ」と促す。そして、妹は訥々と告白する。検査で胎児の染色体に異常が見つかり、ダウン症の可能性があるという事を。姉は、「産みなよ」と主張するが、それに対して妹は同意しない。妹からどう思うかを問われた母親は、戸惑いながら次のように言う。

「カズオ君は何て言ってるの?」

旦那さんのことだろう。この「カズオ君」という台詞が、「家族」に聴こえたのは空耳だろうか。子どものことは旦那さんだけでなく、家族みんなで考えることが理想的だとしたら、それも自然な解釈になろうが、ここでは深入りしない。さて、ここで、舞台に残っていた店員の女性が唐突に口を開く。

「産まない方がいいよ」

プライベートな話に入ってこられただけでも迷惑だが、複雑な想いを抱えている妹は食ってかかかる。「あなたに何がわかるっていうの!」。店員の主張はこうだ。障害者は存在自体が迷惑である。何故ならば、自分には奨学金の返済があり、昼も夜も働いていて疲弊しているというのに、そんな私が何故気を遣わなくちゃならなくなる。かわいそうなのは私の方だよ、と。それに対して、妹は叫ぶ。

「障害者って言うな!二度と言うな!」

そして、最終的には次の宣言する。

「絶対に産んでやる!」

一方、ヒートアップした店員はこうも言う。

「堕ろせ、堕ろせ、堕ろせ!!!」

それに対して妹は、

「産む!・・・産む」

と気持ちを固める。だが、店員の女は次のように言い残して舞台は終わる。

「産める女はいいよ、産める身体を・・・」

多様化した現代社会においては、一見してありえなくはないと感じる物語かもしれない。しかし、決定的なところは、ダウン症だと分かっていながらも、産むという決意の表明にある。普通、人は自分にとって不利な選択はしない。とすれば、この妹にとっては、何かメリットがあっての選択だったのだろうか。しかし、何らメリットらしき要素はこの劇の中には示されていない。店員の女への対抗心だけで表明できるような決意ではないはずだ。故に、本作で妹がこのような決意を表明した理由は一つしか思い浮かばない。それは、山口智子に対するアンチテーゼである。アンチというよりは、パラレルな関係にあると言った方が正確だろう。山口が「絶対に産まない」女ならば、この妹は「絶対に産む」女なのである。たったそれだけのことである。松田のコメントのように、山口のような女性が存在するのと全く同列に、この妹のような女性が存在してしかるべきだ。だいたい、本作はコンセプトありきの演劇である。であるが故に誕生したのが、この妹のキャラクターに違いない。それが、中身がないからといって、感動を誘わないかと言ったら違う。例えば、平田オリザのロボット演劇などを思い出されたい。そしてここは、アゴラ劇場である。そういうことが起こる土壌であろう。

 だがしかし、「絶対に産む女」が誕生したことを喜んでばかりはいられない。本作は、店員の女の次のような台詞で終わっていたからだ。

「産める女はいいよ、産める身体を・・・」

この世界には産みたいのに、産めない女性もいる。更にいえば、男性の方に原因があるために産めない女性もいる(それでも二人は愛し合っているというケースだ)。こうして、例外的なケースを考えていくと、結局は不妊治療や遺伝子操作関連の科学技術の発展に期待するしかない、と思う向きも出てくるだろう。それも欠かせないのだが、「絶対に産む」女がこの演劇によって召喚されたことに、意義がある。と言うと、次のような可能性が先に想像されてしまう。それは、世の中がダウン症の子どもで一杯になり、経済が回らなくなるディストピアである。この観点に立つと、障害者の「労働力」を資本主義的商品経済下でどのように価値づけるか、という課題が発生する。そうした問題は、既に実際に考えられていることもまた確かであり、堀利和が編著の『障害者が労働力商品を止揚したいわけ』(二〇一五年)などにおいては、理論・実践的に解決の糸口が見えている。が、そうした難しい道を選ぶよりも、始めから障害者を産まない方が簡単だろうという考えが上回る。しかしである。「絶対に産む」女に対して、「絶対に産むな」と言える権利を持つ人は、本来この世に誰一人としていないはずである。経済が回らなくなろうが、それは二の次である。というのも、まず始めに保障されなければならないのは、胎児の人権だからである。そう、「絶対に産む」女の存在意義は、彼女が一人ではないという点にある。「絶対に産まない」女と比較してみると、その特異性が分かる。どういう事かというと、「絶対に産まない」女のお腹の中には胎児がいないからだ。何故なら、絶対に産むつもりがないのだから、始めから避妊しているはずだからである。そこで、「絶対に産む」女の語りの主体が、本当はその女ではなく、胎児にあるということが見えてくる。「絶対に産む」女は、胎児の声を聞いた代弁者に過ぎない。ここに、「絶対に産まれる」胎児が召喚される。この胎児に対して、「絶対に産まれるな」と言える権利を持つ人はこの世に誰一人としていないことは明らかである。ところが、そうすると今度は、胎児には法律上は人権が無い、という問題に辿り着く。、さあ困ったこと。そこで、「絶対に産む」女の出番である。「絶対に産まれる」胎児の人権を法律的にも握っているのは、「絶対に産む」女ただ一人である。ここに、「絶対に産む」女の真の存在意義がある。例え、経済が回らなくなろうが、「絶対に産む」女は正義である。彼女はただ、「絶対に産まれる」胎児の人権を守っただけだからだ。「絶対に産まない」女は、ただ自分の主義を主張し、実践しているだけに過ぎない、正義でも悪でもない存在である。だが、「絶対に産む」女は違う。彼女は、法の下に生きる、ただ一人の正義なのだ。故に、本作の妹の最初の状態である、「産もうか産まないか悩んでいる」ような女性のままではダメなのである。そんな女性に必要なのは、「絶対に産んでやる!」と叫ぶ契機なのだ。そして、それは「絶対に産まれる」胎児の代弁である。その声は、出生した存在である本公演やどのように死ぬか(生きるか)を考える再演でもなく、胎児的存在である「ワークインプログレス」でこそ、観客の耳に届くことだろう。

【連作批評】「障害者と旅する」第十五回 textたくにゃん

「障害者」と「健常者」の現在進行形(2)

  親元と喉元を離れた音楽は手元へ――『LISTEN リッスン』評 

 聾者と健聴者が共に生きるこの世界において、音楽は一体どこへ向かうのか。昨年日本でも公開されたフランス映画『エール』は示唆的だ。主人公の高校一年生・ポーラ以外、全員耳が聴こえないという設定のペリエ一家四人は、田舎町で酪農を営んでいる。物語は、彼女がコーラスの授業で歌に目覚め、最終的には親元を離れ、パリの『ラジオ・フランス児童合唱団』に入るまでを描く。それは、ポーラ役のルアンヌ・エメラが、2013年にオーディション番組で才能を見出され、実際に歌手として活躍してゆく状況とも重なっている。そんなポーラの歌声を劇中、ポーラの父・ロドルフが聴こうとするシーンがある。その時、彼が採った手段は、娘の喉元に手を当てて、彼女が歌う時に発する振動を感じ取ろうとするものだった。このあと、彼は娘が児童合唱団の試験を受けることを認め、家族は彼女が試験会場で歌う様子を観客席で見守る展開となる。そこで彼女は、国民的シャンソン歌手 ミシェル・サルドゥの「青春の翼」を、手話をしながら歌う。

ねえ パパとママ 僕は行くよ 旅立つんだ 今夜 逃げるんじゃない 飛び立つんだ

youtu.be

 さて、映画『エール』を通して、聾者が音楽を聴取するための方法には、二つの方向性があることが見えてきた。一つ目は、触覚によって「振動」から音楽を聴取する方法。二つ目は、視覚によって「手話」から音楽を聴取する方法である。だが、直ぐに思い当たるのは、「振動」や「手話」から聴取できたものが「音楽」である、という論理に対する違和である。第一に、健聴者にとって「音楽」は空気の「振動」だが、それは耳という高度な器官があってこそそのように聴こえるのであり、「喉元」の「振動」を「手」という「触覚」で感じ取るものとは異なる。第二に、「手話」が音声言語と並ぶ視覚言語として「言語性」を持つことは自明であるが*1、それが「歌詞」となって仮に「歌」を伝えられたとしても、「歌」という部分集合を含む全体集合の「音楽」までもを表現できるとは言えない。それでは、聾者は「音楽」を聴取できないのだろうか。確かに、健聴者が普段慣れ親しんでいる「音楽」を、同じように聴取することは叶わないだろう。しかし、聾者が聴取できない「音楽」を、それだけを「音楽」として考えることには疑問が残る。そこで、次のように考えてみたらどうだろう。そもそも、人は誰しも「音楽」を持ってこの世に生を享けている、と。それを聾者が、まだ「聴取」できていないだけとしたら。何故ならば、そんな聾者に「聴取」される「音楽」が、まだこの世に生まれてきていないのだから・・・。

 アートドキュメンタリー『LISTEN リッスン』の映像がまず教えてくれるのは、〈聾者に「聴取」される「音楽」の存在〉である。具体的に説明しよう。本作の共同監督である牧原依里と雫境(DAKEI)は(二人とも聾者であり)、日本手話に特有の「間」から、音声言語のそれとは別種のリズムを生み出せることに着目する。「間」を作る「動き」は、手の他に目や顎、顔の表情などを要素とする。結果としてそれは、〈手話に似た上半身のみの舞踊〉のように見える(「手話詩・サインポエム」とも異なる)。二人はこれを「聾者の音楽」として確立する過程で、舞踏家である雫境は元より、舞台経験のない牧原の友人などプロアマを問わない聾者に「演奏」を委ね、牧原はそれを撮影する。その映像が編集されサイレントとなり、本作が世に出たことで初めて、「聾者の音楽」は確立されたというわけなのだ。つまり、「聾者の音楽」という鳥は今ようやく、聾者の入った鳥かごから、健聴者にも「聴取」される可能性のある、「音楽」色が広がる空へと飛び立ったところだと言える。聾者も健聴者も、ただの「聴者」になることを、本作は願っている。

「LISTEN」(聴いて)、と。

 しかしながら、〈「聾者」に「聴取」される「音楽」〉は、手話にヒントを得た「聾者の音楽」のみに限定されないだろう。何故ならば、聾者の全員が全員、「手話」を獲得しているわけではない、という事実があるからだ。また、そもそも難聴者や中途失聴者のような存在にとっての「音楽」もまた異なるものであると考えられる。それでは、誰にとっても「聴取」される「音楽」は存在しないのだろうか。上農正剛は著書『たったひとりのクレオール――聴覚障害児教育における言語論と障害認識』(二〇〇三年)の中で、次のように述べている。

聞こえない子どもたちに「音楽」を示すことが出来る人がいるとすれば、それは音とは何か、音階とは何か、音程とは何か、リズムとは何かという学理的問題を根源的に考えているような音楽学の研究者や作曲家、あるいは音響楽や認知心理学、脳性理学の研究者かもしれません。あるいは、狭い音域の中で単純な音で構成されるエスキモー(イヌイット)やアイヌ等の民俗音楽やコダーイの音楽に耳を傾けるようなタイプの人、あるいは和太鼓打ちではないだろうか

大変に網羅的な考えである。ただあえて、この中には含まれない存在として、批評家・佐々木敦の例を挙げたい。佐々木は、そもそも、<「音楽」とは、最も純粋な「時間」芸術であるからして、そこに音が無かったとしても、その「出来事」に対する「体験」は「聴取」に成りえる>と、著書『「4分33秒」論――「音楽」とは何か』(二〇一四年)において論じている。そして、最終的にはこう述べている。

耳を澄ましたい時には、耳を澄ませばいいんです。

つまり、究極的には、「耳を澄ませ」ばそれは「聴取」となり、その対象は何であっても「音楽」になるのである。ただし、「耳を澄ましたい時」という条件が付く。その契機は人の内にも外にもあるはずだ。そして、その外からの契機の一つこそが、「LISTEN」(「聴いて」)という、本作が上げた産声なのである。

*1:例えば、文化人類学者のティム・インゴルドは著書『ラインズーー線の文化史』(二〇一四年)の中で、次のように述べている。

手話の例が示すように、言葉を見ることは言葉を聞くこととまったく同様に積極的、力動的、関与的になりうる。

【連作批評】「障害者と旅する」第十四回 textたくにゃん

生の芸術を廻って(6)

 

  『思い出し未来』にみる「おわり」と抗う「今日」

 

 演劇において、あるシーンを反復する演出をリフレインと呼ぶ。昨今では、ままごとやマームとジプシーといった劇団の作品の中で頻出することによって、技法として確立されているようだが、それらのリフレインはせいぜい数えられる程度の回数に留まっている。もちろん、リフレインの回数が多ければ良いというわけではないが、結論からいうと、本作のとあるリフレインは、何と十二回の反復を行う。初見でそれをしっかりカウントしていたのは私ぐらいのものだろう。本当にそのシーンは、十三回目で見事にそれまでと違う展開をみせ、次なるシーンへと移行していったのだ。それでは、一体何が十二回も繰り返されたのか。そこでの主題は、「幸せに口は無い=幸せは泣かない」というものだ。主人公の男たちが、一番未来の男に問う。「幸せって何?」「口はあるよね?」「じゃあ、泣かないの?」「きゅうりくらい食わせないと泣かないんじゃないの?」。これに対して、一番未来の男は、「口はない」「泣かない」「きゅうりってなんだよ!」と反論する。この調子の問答が、毎回微妙にディテールを変えながら反復される。そこには、役者の身体があるので、計算されている変化すらも自然な面白さとなってリフレインの強度を確固たるものにしてゆく。十三回目、大きな変化が起こる。「幸せが泣かないって断固として主張するってことは、お前が幸せなんじゃないのか?」この質問により、返答の質も変わる。「俺は幸せじゃない」。問いは続く。「じゃあなんだよ」。「不幸…かな」。幸せが何かは分からなかったが、不幸は分かった。それはこの男にとって、自分自身を意味する形容詞だった。なおも問われる。「不幸は泣かないの?」。ここで、男の感情は解き放たれ、「不幸が泣く」ことでこのリフレインは終わる。いや、終わらなかった。このリフレインが次の次辺りのシーンでまた始まるのだ。「幸せって何?」「口はあるの?」「じゃあ、怒らないの?」。喜怒哀楽の哀ではなく、怒の現出。今度ばかりは、十二回も繰り返されず、このあと、例の二度目の「本公演はこれにて終了です」アナウンスのシーンとなる。その直後、男は、「死にきれなかった」という台詞を吐くのだった。

 さて、このリフレインで幸せの正体こそは明示されなかったが、「不幸が怒る」というイメージを残された舞台は、冒頭のようなモノローグ調のシーンにおいて熱を帯びてゆく。そこでは、反復という手法をとる作品としては一転、「二度と取り返しはつかない」というテキストが採用されている。そして、五人目のその男の次の台詞を最後に、またしてもダイナミックなダンスシーンへとなだれ込む。

オレは、明日を食い破ってやる

抗戦の宣言。それはまず、今日が明日になることに対する抵抗だ。思い出したいのは、前回述べたように、本作の冒頭シーンが「明日が今日を食い破る」というテキストを最後に締められていることだ。本作が抗う、「おわり」は「死」だけではない。その最たるものは、「今日」の「おわり」である。そもそも、明日とはいつやってくるのか。それは、明日になれば分かる、と実は劇中に主人公の男の妻が言っていた。そのシーンでは次のような論理が展開される。明日になったら、明日はその時点で今日になってしまう。すると、その時点で明日は存在しない(まだやってきていない)。それでは、結局のところ、明日はいつやってくるのか。「明日は今日を」延々と「食い破る」のだ。このロジックは、劇中でも「無限地獄」と揶揄されるほどに、繰り返される日々の残酷さを物語る。そして、本作で「無限地獄」を体現しているものは、この十二回の反復を行うシーン=リフレインに他ならない。明日が来ない今日など、絶望の一日でしかない。つまり、主人公の男のリフレインからの脱出は、明日に今日を食い破られる前に、「オレ」=「今日」が「明日を食い破ってやる」必要性を説いているのだ。だが、一つ疑問が残っている。そもそも「明日」とは何か。これまでの文脈から考えると、それは「幸せ」という答えに落ち着きそうだ。何故ならば、「幸せ」への道筋は示されたが、「幸せ」が何かは明示されていないからだ。本作のタイトルから考えても、それは当然だろう。「思い出し未来」、つまり、明日=未来のことを思い出すことが、本作の至上命題である。

 ここで、生の芸術の「はじまり」を巡る本論の歩みを振り返ろう。まず、「はじまり」とは、「はじまり」と「おわり」を含意していた。その「はじまり」とはプリミティブな開演の技法であった。そこには、逍遥性が潜んでいた。一方、「おわり」とは、反復的な終演の技法であった。こちらの方が、「いきなり」と密接に関係していた。何故なら、「おわり」は終わることに抵抗を示し、リフレインを肯定するからだ。だが、そのリフレインが終わりを志向する時が来る。そこでは、「幸せ」とは何か?という命題が浮上する。この「未来」と同義の「幸せ」の正体を探らなければ、生の芸術の「はじまり」に必要なピースはそろわないのだ。そのためには次回、本作と同じく「未来」という語をタイトルに入れた、あの演劇作品にも力を借りることとなろう。

【連作批評】「障害者と旅する」第十三回 textたくにゃん

生の芸術を廻って(5)

 

  『思い出し未来』にみる反復的な終演の技法

 

 前回の最後で、「生(き)の芸術」のはじまりを、引き続き『SELF AND OTHERS』にみていくと述べた。しかしながら残念なことに、恐らく今後『SELF AND OTHERS』へ本論の軸足を戻すことはない。その最大の理由は、前回の結論に由来する。それは、〈「はじまり」がどんな瞬間、どんな場所であっても成立する〉ということが、〈「おわり」もまた、どんな瞬間、どんな場所でも成立する〉ということを意味しているからである。すなわち、『SELF AND OTHERS』を軸とした批評に一旦の「おわり」が今、ここに到来したからである。敷衍すると、『SELF AND OTHERS』という作品だけに、生(き)の芸術の「はじまり」をみる事には当然無理があるという事実の発覚に他ならない。そして、「はじまり」だけに「はじまり」をみることもまた無理がある。何故ならば、「はじまり」は「おわり」を含んでいるからだ。まだ見ぬ「おわり」を見てこそ、生の芸術は起動する。(いや、一重に私の力不足である。しかしながら、「おわり」が到来したことの証明だけはさせて頂きたい。)

 天野天街が作/演出の、少年王者舘『思い出し未来』の東京公演は、二〇一六年三月に下北沢のザ・スズナリで上演された。本作の物語は、連続する場面展開よりも、言葉遊び的に連関する台詞によって浮かび上がり、まず進行してゆく。舞台の冒頭は、「終わらないで!」と連呼する一人の役者に対して、残る九人の役者が次々と〈「おわり」が基調のテキスト〉を口走っていく。その内容は、「終わったね!」「明日に飲み込まれる昨日」「下も上もない世界」等である。例えば、「明日」の「した」と「下も」の「した」の韻が踏まれている。かといって、終始がモノローグ調の演劇というわけではない。「明日が今日を食い破る」という台詞を最後になだれ込む、全役者が振付を合わせにかかる圧巻のダンスシーンも満載である。その導入で目を引くのが、舞台全体をスクリーンにしたプロジェクションマッピングの効果だ。そこに映し出されるのは、舞台がぐにゃりと歪む様である。奥の壁面の中央辺りに稲妻が走り、音響も気が付くとパキパキとしたビートを刻み、しかし、不穏な旋律の中で役者たちは、まるでダンスを観に来たのかと観客が思わされるほどに長い時間、ダンスしている。と思うと、奥の壁面の上部に、「中略」という文字が短く投影され、舞台はオレンジ色に染まり始め、ダンスも落ち着いていく。そして、役者たちが舞台から一人残らず捌けたところで、場内にアナウンスが流れる。「本公演はこれにて終了です」。明らかにまだ始まったばかりである。これで終わりだったら、時間的に短すぎる。観客の誰一人として微動だにしないことが、終演であるかのようにこうこうと照らされた場内を見渡すと目に入いってくる。このあと、照明は落ち、冒頭のシーンを繰り返しにかかり、本作は早くも一パターン目の反復を迎える。そう、この反復は一つのパターンに過ぎない。本作では、何種類かの反復が演出される。例えば、この「本公演はこれにて終了です」というアナウンスも、後半にもう一度行われる。ここで指摘しておきたいのは、本作には「おわり」が三回あるということだ。すなわち、前半と後半にあった二回と、いわば本当の終演を合わせた三回のことである。三という数字は、マルセル・デュシャンによれば、記数法において三以上の残りの数全てを意味する。それに倣えば、本作の終演は無数にあったと言えよう。前回引用した、向井豊明『用意、ドン!』の一文を、再び召喚しよう。

この世界は、元々、「いきなり」なのだ。「用意」はいらない

「はじまり」だけが「いきなり」なのではなかった。「この世界」が「いきなり」なのだ。「世界」には「はじまり」もあれば「おわり」もある。だがしかし、それでは「おわり」とは一体何なのだろうか。

 本作で表象される「おわり」もまた何種類かあるように思えるが、まずは、生命の「死」という「おわり」に触れたい。冒頭のシーンの繰り返しが終わると、どうやら本作には主人公の男がいることが明らかになってくる。その男は、何やら四もしくは五人いる(最大四もしくは五人の役者が舞台に立つ)。実は全員が同じ一人のその男であることが、SF的設定の元で説明される。それぞれ、別の時空間のその男らしいのだ。そのうちの一人が、絶えずピストルをポケットから取り出し、自殺する。二度目以降は、口の中に銃口を向けて行う。そう、この自殺もまた反復される。終盤まで随所で彼は死体となり、その度に少しずつ傷口に巻く包帯を巨大化させて帰ってくる。二度目の「本公演はこれにて終了です」アナウンスの直後、男はこう口にする。「死にきれなかった」。本作において死ぬこと=「おわり」は、簡単には訪れない。確かに、本作は約八十五分間で終わる。そうした、この世界を流れているらしい絶対的な時間に抗うべく、本作は徹底的にある種の鳥について考え始めてゆくのだった。その鳥の色は青だ。

【連作批評】「障害者と旅する」第十二回 textたくにゃん

生の芸術を廻って(4)

 

  『SELF AND OTHERS』にみる生(き)の芸術の「はじまり」

 

 演劇の、その舞台の始まり方は多様である。例えば、開演に先立つ注意事項を観客の前でアナウンスする人物が、そのまま演技を始めることでシームレスに舞台が始まるケースがある。ハイバイ『夫婦』(二〇一六年)では、作・演出の岩井秀人が舞台袖から現れたかと思うと、注意事項のアナウンスを行い、それが終わると携帯電話を取り出して台詞を言い始めることで舞台が始まり、そのまま最後まで役者の一人として出演していた(しかも物語の「語り手」の役目も果たす重要な役どころを演じていた)。また、例えば、登場した役者がわざわざ「始めます」などという台詞を言う、メタ的なケースがある。チェルフィッチュ『三月の5日間』(二〇〇四年)が、「それじゃ『三月の5日間』ってのをはじめようって思うんですけど、」という台詞から始まることは、もはや語りつくされてきた。しかし、何故これらの演劇は、わざわざこのような込み入った手順を踏むのだろうか。そこで、私たちは次のようなことを考えさせられる。そもそも物事の「はじまり」とは、いつ・どこにあって、何を示しているのか。それは、この世界の始まりを哲学的に解き明かそうとするカンタン・メイヤスー『有限性の後で』(二〇一六年)を読むことでも、一つの解答を得られる。だが、私たちが本論で知りたいのは、「生(き)の芸術」のはじまりだ。

 今野裕一郎が作/演出の、バストリオの野生Vol.02『SELF AND OTHERS』は、二〇一六年二月に3331 Arts Chiyodaの地下一階にある教室内で上演された。3331は廃校を再利用した文化・芸術の多目的空間であり、上演された教室というのはもともと理科室だったかもしれないくらいには広いものの、いわゆる昔ながらの学校の教室である。つまり、舞台と客席の明確な境目は無い。観客は、用意されている低めの椅子などに座り、目の前の空間を舞台と認識している。ということは、客席さえあれば、客席以外は舞台だと考えることができるかもしれない。劇場などでは確かに多くの観客を動員できるが、舞台と観客の間に明確な境界を引いてしまうことが、演劇の上演にとって何か弊害となる可能性もある。そうしたことへのオルタナティブが、前述したシームレスな上演やメタ的な台詞の導入なのかもしれない。だが、もっとも、このようなせり上がった舞台がない空間で行われる演劇作品もまた、珍しくはない。というか、演劇に限らず、例えば音楽のライブなどでも、飲食店や本屋などの一角で行う場合に、せり上がった舞台など無く、客席の目と鼻の先でアーティストが演奏している光景など、数知れない。つまり、そもそもせり上がった舞台があるかないかは、演劇に限らず、あらゆる芸術において、極めてプリミティブ(原初的)な形式美であるといえる。それを、お金が無くて仕方なくやっていて、観客がついてくれば舞台のせり上がった大きなところでやるんだろう、とツッコむこともできるかもしれない。だが、全ての観客がそのようにせり上がった舞台の上で行われることを望んでいるのとは違う。むしろ、演劇は敷居が高い、映画は価格が高い、ライブは体力がきつい、本は持ち運びが辛い、美術は偉そうなどと、あらゆる芸術に対するハードルを上げてしまった現代的な感覚を抱く観客にとっては、せり下がった舞台で行われる芸術こそが馴染む可能性が高いと、考えることの方が自然ではないだろうか。

 いずれにせよ、プリミティブな形式美は、「せり下がった舞台」によるものだけではない。客席の目の前の舞台と思しき空間には、既に劇中で使われるであろういくつかの小道具が設置されている。中でも注目したいのは、天井の左右二ヵ所から吊るされたマイクである。マイクスタンドに刺さったマイクではない。取り外しはおろか、高さの調節すらできない。もし、そのマイクに向かって役者が何か台詞を吐くようなことがあれば、背の低い役者は背伸びする必要がありそうだし、背の高い役者は・・・いや、高さの調節は上方へは行える。つまり、マイクを吊るしているコードは、柔軟なので、マイクかコード自体を手で持ってしまえば、背の高い役者にとっては問題なく使用できる。このマイクの効力は、単純に上下が逆転したものではない。肝要なことは、コードの柔軟性だ。これが地面に立ったマイクスタンドであれば、ぐにゃぐにゃすることはありえない。高さの調節は直線的におこなわれる。だが、天井から吊るしたコードであれば、そのコードの余分な長さの限りは非直線的に高さが調節できる。それはもはや高さの調節というより、三次元的な調節を可能にする。もちろん、有限ではある。天井からマイクまでのコードの長さを半経とした、半球体の面を描く弧の内側という条件がある。この条件下で、天井から吊るされたマイクが上演中にどのような働きを見せることになるのか、それもまたプリミティブな形式美に違いない。

 これまでの段階では、『SELF AND OTHERS』はまだ開演されていない(だがしかし、舞台は「はじま」っていたかもしれない。例えば、平田オリザが主宰する青年団の演劇においては、開場の時点から舞台に役者が立っていて、やはりシームレスに開演される。本作は役者らしき人物こそ舞台に立ってはいないが、開演前から舞台がはじまっていた可能性があるということは、この後明らかにしたい)。開演時間が差し迫った頃、開場時から「こちらの席も見やすくなっております」などと、場内係をしていた女性が、開演に先立つ注意事項をアナウンスし始めた。それが終わると、教室の照明が落ち、彼女が舞台から捌ける。次に、二人の役者が登場する。一人は、ギターを持った女性。そして、もう一人は、先程アナウンスをしていた女性ではないか。なるほど、役者でも、場内係の仕事をしなければいけないほどに人手不足の小さな劇団なんだな、と考えることもできる。が、そう穿った見方をするよりも、この純粋な驚きを新鮮な体験として、この演劇に望むのはどうだろうか。すると、驚きは連続する。彼女は、舞台の右側に敷かれていた真っ白い、一見して何の変哲もない布の横にしゃがんで、布の真ん中辺りに手をかざす。すると、その布の真ん中辺りが徐々に上方へと浮かび始める。どうやら、白い糸が結わいつけられていたようだ。その紐を引っ張ることで、布の真ん中辺りがゆっくりと上方へと持ち上げられていく。その結果、客席から見た布の形状は、まるで山のようになる。それは、例えば、二〇一三年に東京・小笠原諸島の遥か沖合に突如出現した西之島新島のような、隆起する大地を彷彿とさせる。舞台後方の壁面にテキストが映し出される。「0、オープニング」。舞台の左側で、もう一人の役者が、ギターの弾き語りを始める。立ったまま、はっきりとした発声で、歌い出す。

 

ひとつの生き物♪

・・・

崩れ始めた生き物♪

・・・

ひとつの生き物になれたら なれるなら♪

 

この演劇は、ある個体のその個体性を問う物語。ある個体がその個体になろうとする物語なのかもしれない。例えば、岡崎藝術座『イスラ!イスラ!イスラ!』(二〇一六年)が、ある島を主体とした語りを果たしていたように。だが、白い山は、最終的には彼女が糸から手を放すことで元通りになり、布は回収され、その役割を終える。彼女が去り、新たに三、四人の役者が舞台に躍り出る。彼らはガラス製の球体や一メートル大の流木、茶系の色をしたペニスに見えなくもない形の物体などの小道具を次々に置いていく。舞台の右端に立った男性役者が、徐にマッチを擦る。彼は、作・演出の今野裕一郎だろう。開演前から、関係者に指示を出していたし、実は舞台の右端手前のスペースで、ずっと音響や照明などの操作を行っていたことからも、間違いない。点いたマッチの火をまた徐に吹き消す。そして、火の消えたマッチはその場に捨てられる。マッチの残り香、焦げ臭い匂いが客席に漂ってくる。ここで注目したいのは、このマッチの効果よりも、彼の登場そのものである。本作品の出演者として、彼はクレジットされているわけではない。だが、彼はこの後も、度々舞台に出てきて、時には台詞も放つ。その台詞や彼の登場は舞台に馴染んでおり、必然的に感じられる。いわば、ここにもまたプリミティブな形式美がある。ハイバイ『夫婦』における岩井秀人のような、作者が役者としても出演することの自然さ。彼が役者なのか作者なのかという見立てが、もはやそこには不要に思えてくるほどの違和感のない存在感だ。背の低い男性役者が、右奥にあった黒板からチョークを手に取り、右奥から左手前の方へ、床に一筆書きで線を引く。これがゆるやかな波線である。そして、二ヵ所ほどでは、置いてある小道具の球体を囲むようにしてぐるっと円弧を描いて、また波線の主線へと続いていく。新たに女性の役者が登場し、天井から吊るされたマイクに向かって次のような台詞を言う。

昔ここに男がいた。男は外からやってきた。たくさんの土地へと移動しながら、いつしかわたしたちと歩き始めた。海や川のそばを移動した。風がふいていた。くうきが流れていった。彼との間にあった境界線はいつしか消えていた。彼女の中にあたらしい命があらわれた。やがて大きな円い湖のほとりに町ができて、人々は集まって一緒にくらしはじめた。この世界には内側と外側があって、ふと気付いたとき、彼は外側にいた

この台詞の中で述べられていることと、先程舞台の床にチョークで描かれた波線は関連している。まず、「円い湖」と、小道具の球体を囲む円弧が重なる。次に、台詞の中の男が、「たくさんの土地へと移動しながら」「外からやってき」て、最終的に「外側にいた」ことは、波線が直線のように秩序を持たず、そして円弧を描いたのちまた波線を続けていったことと重なる。視覚(記号)と聴覚(言語)の両面から訴えてくるこれらが表象するイメージとは何だろうか。どことなく不安定な世界像に感じられてしまうが、単に諸行無常をうたっているだけなのだろうか。前回引用した、ティム・インゴルド『ラインズ 線の文化史』において、は次のように述べている。

つまり徒歩旅行とは、場所なきものでも場所に縛られたものでもなく、場所をつくるものである。

先程の台詞をもう一度振り返ろう。「外からやってきた」「男は」「わたしたちと歩き始め」、後に、「町ができて、」最終的に「彼は外側にいた」。つまり、この男=彼は「徒歩旅行者」であり、彼の存在が町をつくりだしたのだという見方ができる。こうした「徒歩旅行者」がもたらすイメージに、「逍遥」という言葉を与えよう。それは、「気ままにあちこち歩き回ること」を意味する。逍遥性を持つ人間は、「場所をつくる」人間である。断章形式で構成される本作に、分かり易い一貫したストーリーは無い。しかし、むしろ様々な試みを通して、逍遥的に何か「場所」をつくろうとしているということが、「0、オープニング」で既に宣言されているのだ。その場所こそ、「生(き)の芸術」が生まれる場所ではないだろうか。

 さて、天井三カ所から吊るされた裸電球の内の真ん中の一つに、オレンジ色の灯りが徐々につく。後、役者全員の声で、「やがて彼は旅立ちました」と告げられ、役者の捌けた舞台は暗転する。舞台後方の壁面に、「1、不在」、「ひとりの写真家がいた」、「ひとりの映画監督がいた」というテキストが浮かび上がる。舞台に照明が戻り、先程の男性役者が登場する。彼は流木を見つめ、おもむろにその傍らに、横たわる。BGMに波の音が聴こえる。後、起き上がった彼は、舞台を横断するように引かれた波線の上を、つまり、波打ち際を辿るようにしてスキップ気味の歩調で舞台から去る。「1、不在」が終わると舞台は暗転し、後方壁面に、「SELF AND OTHERS」、「2、小山さんと砂川さん」のテキストが映し出される。舞台が明るくなり、小山さんと砂川さんらしき二人の女性役者が登場する。一人の女性が次のような台詞を言う。

「じゃあはじめます」

これは、チェルフィッチュ『三月の5日間』を彷彿とさせる。そして、確かに、ここから舞台は、台詞や振付に力が入っていくので、いわゆる「演劇的」な様相を帯びていき、観客の視線に耐えうるかのように思われる断章「10、さいごの風景」まで続いていく。しかし、「はじめます」と言うまでに、「0、オープニング」も「1、不在」すらも過ぎている。つまり、既に舞台は始まっているではないか。ここでもまた、観客は純粋な驚きを覚える。徹底して、定式的な「始まり」を無化する演劇だ。思い出すのは、第十二回早稲田文学新人賞受賞者であり、二〇〇八年に死去した向井豊昭の短編小説、『用意、ドン!』の後半に位置する一文だ。

この世界は、元々、「いきなり」なのだ。「用意」はいらない

決まった、始まりの地点(場所と時間)などないのだ。それは、決められたコースの無い、不安定な世界かもしれない。しかし、逆に言えば、それはあなた次第でどんな場所、どんな瞬間だって始まりになりうることを、端的に表している。その上で、私たちの考える「生(き)の芸術」のはじまりは、本作にあるということを、引き続きみていく。

【連作批評】「障害者と旅する」第十一回 textたくにゃん

生の芸術を廻って(3)

 

  アール・ブリュット」の未来

 

 ここまで、二つの記録映像を通して、「アール・ブリュット」の現在と過去、すなわち、現状と課題について考察してきた。それは端的にいえば、「アール・ブリュット」という言葉が本来の意味から遠く離れたところで機能しており、その為に「障害」の有無に関わらず、「芸術」にとって弊害が発生している、ということだ。そこで、ここからは、「アール・ブリュット」の未来、すなわち、あらゆる「芸術」をアップデートするための展望を示したい。そこで、三つ目の映像作品である、ドキュメンタリー映画『まひるのほし』(一九九八年)を観ていく。「アール・ブリュット」の問題を解決する手がかりは、初期の「アール・ブリュット」の中にしっかりと映し出されているからだ。

 『まひるのほし』の舞台は主に三つ、兵庫県西宮市にある武庫川すずかけ作業所のアトリエと、神奈川県平塚市にある工房絵、滋賀県甲賀市にある信楽青年寮である。各々、主に知的障害者がアート活動を行っており、本作は彼らの作品や関係者を含めた風景を、井上用水の楽曲を交えながら映し出していく。冒頭、「はてない空 かげりのない雲」と陽水が歌い出す、一九七四年の楽曲「太陽の町」をBGMに、武庫川らしい川辺で何やらアート作品を制作している集団の、楽しげな様子を見せられる。本論で肝心なシーンは、早くもこの次にやってきた。それは、「兵庫県西宮市」とテロップが付され、駅前と思しき風景を捉えただけのワンカット。奥に駅舎らしき建物、その手前は車が行きかう道路なのだが、上空には高速道路がある。この高架の高速道路の形状に注目しておきたい。それは、円を描いている。画面右から走ってくる車が、円を描いてから左へ抜けていけるような、そんな立体交差した道路が画面上部にある。図形でいえば、「Ω(オメガ)」という記号をイメージして頂ければいいだろう。そんな、「兵庫県西宮市」の武庫川すずかけ作業所のアトリエ内で、一人の男が絵を描いている。舛次崇、通称・シュウちゃん。本作における武庫川すずかけ作業所パートの主人公である。彼は床に座り、右手に筆を持ち、目の前に敷かれた大きめの紙に向かっている。傍らには、主宰者の絵本作家・はたよしこが付き、シュウちゃんのドローイングを適度にフォローしている。本イベントのアフタートークで山上徹二郎が語ったところによれば、はたよしこの存在は大きい。彼女の愛情と熱意があったからこそ、武庫川すずかけ作業所のアトリエは成功していたらしい。また、作業員に限らず、関係者の男たちは皆、彼女に一目置いていたということだ。その意味で、はたよしこの言動をも収めた本作は貴重なのだが、私たちが第一に観るべきは、アート活動を行う知的障害者の言動である。観るべきというより、観てしまうといった方が正しいだろう。中でも私たちの目が吸い寄せられるのは、シュウちゃんの足もとである。一見して、彼は胡坐をかいている。その姿勢で絵を描くだけでも吃驚するが、その両足の柔軟性が尋常ではない。バレエや新体操の選手レベルに柔らかい両足は、もはや胴体から二本のアンテナのように左右に飛び出ているほどだ。ただ飛び出ているわけではない。胡坐の状態なので、当然その両足は立体的に交差している。・・・そう、このシュウちゃんの下半身を、真上(もしくは真下)から見た場合の形状は、駅前の高架道路と相似形の「Ω」だ。何という事だろうか。本作のまだ最初のパートが始まったばかりで、私たちは世紀の大発見を果たしてしまったに等しい。それは、第一に、「知的障害者」の「柔軟な下半身」について考えることが、「アール・ブリュット」を考える上で欠かせないということを、ほとんど直観的に示している。思い出すのは、記録映像『アール・ブリュットが生まれるところ』(二〇一四年)の第二話の主人公、西ノ原清香だ。彼女は、左手に筆を持ち、体育座りで、地面に敷かれたキャンパスに向かって絵を描いていた。彼女の下半身もまた柔軟なものだった。一見して、無意味に見える彼/彼女らの特殊な下半身。知的な障害を持つ人が絵を描くという時に、確かにその知性が絵に影響を与えているだろうことは否定しがたい。しかし、その知性は何を経由して作品になるのか。その道中には様々なものがあるだろう。筆や紙といった道具もそうだが、彼らの創作中の文字通りの意味での姿勢、すなわち身体があるということを、見過ごしてはならないのだ。第二に、「Ω」という形状そのものに、≪絵を描く時の「生命」の得とく≫が体現されている。イギリスの社会人類学者・ティム・インゴルドは著書『ラインズ 線の文化史』(二〇一四年)の中で、舞踊におけるエネルギーの流れは遠心的である、と述べながら、次のように続けている。

書は求心的であり、すべてのエネルギーは検問所――肩、肘、手首、指関節――を介して、無数の筆毛が紙に接触し、常に運動する筆先へと集中する。

シュウちゃんの「Ω」は、インゴルドの言う「求心的」な「エネルギー」の流れをそのまま表した形をしてやいないか。インゴルドの思想に倣えば、シュウちゃんの作品には、「生命」が得とくされていることは間違いない。絵を描く際の、「生(き)の芸術」の「生(せい)」は、「求心的」な運動体なのだ。

 「アール・ブリュット」作家の柔軟な身体とその形状について考えることは、これまであまり無かったことのように思う。だが、それは、「アール・ブリュット」の未来を切り開く一つの手がかりであるということを、『まひるのほし』は一九九八年の段階で私たちに教えてくれていた。それが、本作の監督である佐藤真の意図だったかは、今となっては誰にも分からない。何故ならば、彼は二〇〇七年に四十九歳の若さでこの世を去ってしまったからだ。それでは、私たちは、佐藤真が本作で映し出した「Ω」について、どのように思索を続けて行けば良いのだろうか。いくつかの道があるだろう。だが、二〇一六年二月現在、その道は一つしかない。佐藤真のドキュメンタリー映画作品の中に、「SELF AND OTHERS」というタイトルの映画がある。そのタイトルを意識的に自らの作品のタイトルに使用した演劇が、この度上演された。その演劇作品にもまた、「Ω」状の線描が印象的に使用されていた。記録映像・ドキュメンタリー映画を通して「アール・ブリュット」について考察してきた私たちは、ここで演劇というジャンルに向かうこととなる。もっとも、その作品は「演劇」というジャンルに留まらない舞台芸術であったことは確かであり、その意味でも「生(き)の芸術」として位置づけられることだろう。

【連作批評】「障害者と旅する」第十回 textたくにゃん

生の芸術を廻って(2)

 

  「アール・ブリュット」の過去

 

 前回に引き続き、二〇一六年一月二十四日(日)行われた、「障害のある方の創作風景とその日常に学ぶ 創作記録映画 上映会~生きること は 創ること~」というイベントから、「生(き)の芸術」について考えていく。上映された三本の作品の中から、記録映像『日本のアール・ブリュット パリに上陸するの巻』(二〇一一年)を考察していく。これから話していくのは、「アール・ブリュット」の過去だ。過去を考えるのにあたって、割と最近の出来事を扱うが、五年の月日が経てば、それは充分に過去という側面を確固たるものにしているだろう。

 本映像が記録しているのは、二〇一〇年三月から二〇一一年一月にかけてフランスのパリ市立アル・サン・ピエール美術館で開催された、「アール・ブリュット ジャポネ展」の表/裏舞台の様子である。本展覧会には、日本の六十三名の作家による約八百点の作品が展示された。オープニングレセプションに合わせて、大型バス一台を貸し切る程の人数の作家とその家族や介護者、関係者も実際に現地を訪れており、それに密着した映像は貴重だ。例えば、統合失調症を患っているすずき(漢字が難しい)万里絵は、現地の街中でインタビュアーを前に、次のような感想をもらしている。

「他の国ってあるんだなあ」

ハッとさせられる。それはもはや、障害のあるなしに関係なく、その素朴な感性に対してだ。

 本作が「アール・ブリュット ジャポネ展」の舞台裏として映し出す見どころの一つに、著作権の問題への対応争議がある。障害者の作品を出展する場合に、フランスでは当然必要な著作権の所在が、日本ではまだまだ曖昧となっていたのだ。本展の日本側の窓口である滋賀県社会福祉事業団の北岡賢剛と関係者が中心となって開いた会合では、障害者本人に帰属できない場合に成年後見人制度を使うかどうかなど、いわば著作権のエンパワートメントが争点となった。この課題は世に広く問われるべきだと思い、ここで紹介したが、私が本論で本作の最重要シーンとして挙げたいのは、表舞台における次のシーンである。

 カメラは会場に訪れた観客にも向けられ、時にはインタビューも行っている。その中で、イギリスのアール・ブリュット専門誌『RAW VISON』の編集長、ジョン・メーゼルが次のようにコメントするシーンがある。

 「(日本の作品は)グラフィック的な要素が多い」

まず、彼の本意かどうかは定かではないが、少なくともこの台詞を使った本作の監督である代島治彦には注意が欠けている。すなわち、この台詞は、一見して日本のアール・ブリュット作品に対するポジティブな評価を示しているが、裏を返せば、グラフィック的な要素の少ない作品を貶めるだけのシーンになっているのだ。本当に、日本の作品の多くはグラフィック的に優れているのだろうか。確かに、そうとも言えるし、西欧の人間からすればそうとしか見えないのかもしれない。だが、本作に映る数多の作品を鑑賞する限り、グラフィック的に優れていない作品にも良さがあるように思える。果たして、グラフィック要素以外のポジティブな面を、本作が他の場面でフィーチャーしているとは言い難かった。百歩譲って、それが現実なのだと言うのであれば、それをフォローするシーンを入れるべきだろうが、作家の田口ランディが、「人を夢の世界に連れていくアートなんだなって感じた」とか、辻仁成が「すごーい、いいでしょう」などと凡庸な批評を述べるばかりである(彼らは仕事モードではなく一観光者や、一ファンとしてカメラの前に立ったに過ぎない)。そして何より、この台詞は日本のアール・ブリュットの将来に関わる問題を孕んでいる。作品を評価する場合は、当然その時点での評価にはなる。だが、映画は(その意味でも本作はあくまで「映像作品」に留まるのだが、)作品の評価を下す審査員ではない。審査員がいるとしたら、それは映画を観ている観客しかありえないし、そのために映画の批評性は拓かれていることが望ましい。そして、観客に限らず、芸術作品を批評する場合は、そもそもその作家の未来をも視野に入れなければならない。何故ならば、作家の作風は変わりうるからだ。一人の作家を十年単位で追う事の意義は忘れられがちである。であるからして、安易なこの台詞を使用したシーンは、むしろ日本のアール・ブリュットの将来の、雲行きの怪しさを私たちに伝えてくれる。そのことは、アフタートークでも、代島に対して山上徹二郎が指摘した点でもある。

 そもそも、日本におけるアール・ブリュットの成り立ちを思い返したい。障害者の諸芸術ジャンルの中でもアートというジャンルは、現代美術から一線を引かれた特に厳しい状況にあった。それが、先にヨーロッパで認められたことで、日本の現代美術界に逆輸入された。それは必然的なプロセスだったのかもしれないが、それと同時に「アール・ブリュット」という言葉の意味が、「障害者の美術」と規定されてしまった。前回から見てきたように、「アール・ブリュット=生の芸術」は、「障害者の美術」に限定されない。生への衝動・欲求を孕む、あらゆるジャンルの芸術を指す言葉だ。しかし、残念ながら本作『日本のアール・ブリュット パリに上陸するの巻』(二〇一一年)が私たちに教えてくれたことは、テン年代に入った時点でも、「アール・ブリュット」という言葉が本来の機能を失っているということである。それは、「障害者の美術」にとっても、「生への衝動・欲求を孕むあらゆるジャンルの芸術」にとっても、まさに生き辛い状態を作っている。そこで私は、本作を「アール・ブリュット」の過去、すなわち問題点と位置付け、そこから今後の展望を示していくことにする。

【連作批評】「障害者と旅する」第九回 textたくにゃん

生の芸術を廻って(1)

 

  アール・ブリュット」の現在

 

 正式な美術教育を受けていない作家による芸術作品のことを、「アウトサイダー・アート」と呼ぶ。美術評論家の椹木野衣は、昨年著した新書『アウトサイダー・アート入門』の中で、アウトサイダー・アーティストとして山下清ヘンリー・ダーガーらを紹介している。山下清は、「裸の大将」の呼び名で放浪画家として一般に知られている。知的障害があった清は、十二歳で入った養護学校で貼り絵と出会い、戦前から戦後に作品を残した。ところで、清のように障害のある作家による芸術を、「アール・ブリュット」と呼ぶ向きもある。他にも、「エイブル・アート」や「ワンダー・アート」、「ボーダーレス・アート」という言葉で呼ばれることもある。ここで厄介なことは、単にそれらの差異ではなく、例えば「アール・ブリュット」という言葉が本来、障害のある作家による芸術のみを指す言葉ではないことにある。そもそも、「アウトサイダー・アート」という言葉は、フランス語の「アール・ブリュット」の英訳語である。「アール・ブリュット」は、20世紀のフランスの画家、ジャン・デビュッフェが「生(き)の芸術」という意味を込めて提唱した概念である。要するに、「加工されていない芸術」を意味する。デビュッフェ自身は、主に精神障害者の絵画を収集&展示していた為、西欧では精神障害者の絵画作品が「アールブリュット」の主流である。しかし、日本では知的障害者発達障害者の活躍が目立つ。いずれにしても、障害者の絵画だけに留まらない、「生の芸術」が「アール・ブリュット」である。そうはいっても、例えばピース又吉の文学を「生の芸術」という観点で、いきなり評することには無理が生じるだろう。それでは、「ひまわり」や「夜のカフェテラス」という題の作品を残して自殺した19世紀の画家、フィンセント・ファン・ゴッホはどうか。晩年のゴッホの精神は狂っていたはずだが、彼の作品が死後に評価された時に、彼の精神状態が殊更に重視された訳ではない。ゴッホの作品を「アール・ブリュット」という観点で評することもまた、本質的ではないだろう。ここから、≪「アール・ブリュット」という言葉は、今のところ広く認知されていない障害者の芸術作品を、世に出す時の便利な言葉として使用されてしまっている傾向にある≫という方向性を導き出せる。それでは、本来の「生の芸術」という意味合いが追及されないままで良いのか。否。「アール・ブリュット」は、障害の有無やジャンルに関わらず、芸術について考える全ての人にとっての普遍的な命題だ。

 

 本日、二〇一六年一月二十四日(日)、「アール・ブリュット」が主題の映像作品が三本、東中野の西口からほど近いビルの九階にあるイベントスペースにて上映された。上映は、平成二十七年度独立行政法人福祉医療機構社会福祉振興助成事業として行われた、「障害のある方の創作風景とその日常に学ぶ 創作記録映画 上映会~生きること は 創ること~」というイベントのメイン・プログラムだ。上映された三本の作品とは順に、記録映像『アール・ブリュットが生まれるところ』(二〇一四年)、ドキュメンタリー映画『まひるのほし』(一九九八年)、記録映像『日本のアール・ブリュット パリに上陸するの巻』(二〇一一年)である。また、プログラムの最後にはアフタートークがあり、一本目と三本目の上映作品を監督した代島治彦と、二本目の上映作品をプロデュースした山上徹二郎が登壇した。この貴重なイベントが日曜日の昼間に無料で開催されたことに、まずは感謝したい。何が貴重だったかといえば、まさしく「アール・ブリュット」の過去と現在と未来が、濃縮された時空間がそこにあったからだ。まずは、「現在」の話から始めていこう。

 『アール・ブリュットが生まれるところ』は、創作活動を営む十組の障害者と関係者を第一話から第十話という構成で、オムニバス形式で紹介する。単純な記録映像なのに、最後まで中弛みすることはない。その第一の理由は*1、カメラの前に表れる障害者たち一人一人が、とても魅力的だからだ。私は、これまでに障害者が登場するドキュメンタリー映像を数多く見てきているし、現実にも小さい頃から数多くの障害者と間近で接してきた経験があるが、それでも新鮮さは尽きない。何故、これほどまでに彼らから学ぶことがあるのだろう。そうは言っておきながら、一人一人紹介することは割愛する。何故ならば、それぞれを紹介するのに割かれた時間が十分弱しかない映像を前に、私が一人一人の魅力を言葉で語ったとしても、映像表現の持つ直観性には敵わないし、それを総括する結論部まで引っ張ることには婉曲性が必要となるからだ。したがって、本論を進めるにあたって本当に肝心なことだけに触れることを、予め了承頂きたい。その上で、私が特筆に値すると考える人物が一人いる。それは、第八話に登場する三井信義という「健常者」だ。彼は二〇〇七年、岩手県花巻に「るんびにい美術館」という、「アール・ブリュット」作品を尊重する施設を興した。美術館の一階は展示スペースだが、二階にはアトリエがある。そこからは、後にパリで行われる「アール・ブリュット・ジャポネ」展にも参加している、故 昆弘史も輩出されている。そんな「るんびにい美術館」を運営する、社会福祉法人 光林会の理事長である三井は、実は時宗の寺 光林寺の住職でもある。彼は、障害者に対する想いを次のように語っている。

死ぬまでサポートだと思いますね

創作活動を営む障害者も、いつかは老いて死ぬ。障害を持つ彼らにとって、死の直前まで創作活動を営める可能性は、「健常者」よりも相対的には低くなるだろう。更にいえば、障害を持つ人の寿命自体が、「健常者」よりも短いという現実もある。つまりこの台詞は、障害者が創作活動を営んでいる時だけ調子良くサポートすることへの、戒めの発言だ。この、「サポート」という言葉は、「介護」という福祉的な意味だけに回収されない。彼は一介の住職ではない。「アール・ブリュット」を志向/思考している。「アール・ブリュット」の本意が、「生(き)の芸術」にあることを思い出されたい。それは、端的にいえば「加工されていない芸術」という意味であることは前述した。「加工されていない芸術」の源泉は、生への衝動・欲求にある。彼らは、創作しなければ生きていけないと言っても過言ではない。三井の台詞を以下のように置き換えてみよう。

「死ぬまで創作だと思いますね」

生きている限り付きまとう創作。それは、まさに「生への衝動・欲求」を源泉とする、「アール・ブリュット」の本質である。「アール・ブリュット」を志向/思考するということは、障害や芸術性の有無に関わらず、人の命という問題を志向/思考することと同義なのだ。三井の発言を頼りにすれば、「障害者の芸術」と「人の命」の密接な関係性が浮かび上がる。これが、記録映像『アール・ブリュットが生まれるところ』にみる、「アール・ブリュット」の現在である。

*1:アール・ブリュットが生まれるところ』が中弛みすることはない第二の理由は、十組の背景にある物語性が生かされた構成となっている点にある。どういうことかというと、特に後半になるにつれて、話題性のある登場人物が選ばれているのだ。まず、第七話の主人公である蒲生卓也が福島県いわき市に住んでおり、身近で亡くなった障害者がいるエピソードが挿入されること。次に、第九話の安藤講平と平川病院には、彼らを題材にしたドキュメンタリー映画や書籍の存在があること。最後に、第十話のすずき(漢字が難しい)万里絵の絵のインパクトと、統合失調症故に他の障害者に比べて雄弁であることが挙げられる。

【連作批評】「障害者と旅する」第八回 textたくにゃん

写真における作為/作意(2)

 

  映画『カメラになった男』にみる自意識の解体と再生

 

 今から二ヶ月前に公開した本連載の第一回において私は、自閉症(+知的障害)を持つアマチュアカメラマンの青年・米田裕二(以下、裕二くん)の写真を批評対象とし、彼の撮影スタイルを写真家・鈴木理策の方法論と比較することで、彼の写真における、『写真分離派宣言』(二〇一〇年)で言うところの「棘」について考察した。今回は、その論考の続編である。予告通り、裕二くんの写真を考える上で、写真家・中平卓馬について書いていく。本論で主に依拠するのは、ドキュメンタリー映画『カメラになった男』(小原真史作品、二〇〇三年)における中平卓馬である。その第一の理由は、裕二くんを世に知らしめたドキュメンタリー映画、『ぼくは写真で世界とつながる』(二〇一四年)と本作の親和性にある。本作は、大別すると二つの空間で構成されている。一つ目は、横浜の自宅とその近郊。そして二つ目は、旅先としての沖縄(本島と宮古島)だ。ここに、『僕は写真で世界とつながる』との決定的な共通項がある。まず、自宅と沖縄という空間構成。その沖縄へ行くきっかけにあった一人の青年の死が、それである。

 中平卓馬は昨年、七十七歳でこの世を去った。しかし、彼にとっての最初の死は、三十九歳だった一九七七年に起きているとも言える。急性アルコール中毒で昏睡状態に陥った彼は、逆行性記憶喪失をともなって息を吹き返した。この健忘症は、発症以前の記憶を思い出すことの障害である。健忘の程度には個人差がある。劇中、沖縄の地での宴会にてアラーキーこと写真家・荒木経惟と会話するシーンがあるが、アラーキーは次のようなことを言っている。

中平卓馬から記憶喪失について教えてもらったよ。嫌いなことは覚えてないのね。好きなことだけ覚えてる」

発症後の彼は、息子のことを小学生の頃のイメージで記憶しており、大人になった現在形の息子を認識することに難があったことも劇中では語られている。また、八三年に彼は失語症になり、言葉の大半を忘れてしまう。そのリハビリとして、彼は日記を付け始める。それから二十年後の二〇〇二年。彼は発症後約三度目に当たる沖縄来訪へと旅立った。その背景には、牧子剛という若いカメラマンの死がある。中平卓馬が初めて沖縄を訪れたのは七三年のことだったが、その時一緒にいたのが牧子だ。牧子とはその前に葉山で出会った。二人は意気投合したのだろう。劇中に出てくる中平のメモによれば、沖縄への旅の目的は「夢の具現化」である。だが、沖縄から帰った後のある日、待ち合わせしていた葉山のポニーというお店に、牧子が現れることはなかった。カメラを持ったまま転落したという。場所は海辺の岩壁だったのだろうか。何かを撮ろうとしていたのだろうか。いずれにせよ、中平卓馬にとって牧子の記憶は沖縄とともにある。中平卓馬が沖縄で写真を撮るということには特別なものがある。「夢の具現化」と書かれたメモには、次のような言葉もあった。

自意識の解体

このキーワードは、何も記憶喪失状態にある写真家が達した思想ではなかった。中平卓馬にとって「自意識の解体」とは、沖縄への期待感の中で既に浮かび上がっていたのだ。

 それでは、写真家にとっての「自意識の解体」とは、一体どのようなものなのだろうか。ここで、実際に中平卓馬の写真を見ていこう。現在、横浜美術館で開催されている「2015年度コレクション展第3期」では、「無名都市」という題名の写真作品セクションで米田知子らの作品と共に展示されている。「無題」となている写真群。撮影された年は一九六六~七三年である。繁華街の看板が目立つ建物や道行く人など、いわゆる街中の断片的な風景が白黒で写し出されている。それらは、「匿名性」を帯びた写真である。劇中、写真家・東松照明の「沖縄マンダラ」と題された写真展の記念シンポジウムにおいて、写真家・森山大道らとともに登壇した中平卓馬は、シンポジウムの「写真の記憶 写真の創造」という副題を取り上げ、次のように持論を展開する。

「写真はアメリカ語を使えば、クリエイションではなくドキュメンタリー」

つまり、中平卓馬にとって写真とは「創造」ではなく「記録」なのだ。だから、彼の写真は「匿名性」を重視する。作為はないのだ。作家の意図があるとすればただ一つ、「匿名性」を写真に宿らせることだけである。劇中の終盤、中平卓馬の著書『決闘写真論』から引用した言葉が、彼の声でナレーションとして挿入される。

「全く自らの意識を越えた存在」

彼にとって写真とは、「自意識を解体」することで撮られた「全く自らの意識を越えた存在」なのである。だが、それはもはや、「創造」と呼べる行為である。ここに、鈴木理策の方法論との共通項がある。それは、写真に“作為”をこめない“作意”である。とすれば、第一回と同様の論理で、裕二くんの写真が中平卓馬の写真と親和性があることは言うまでもない。前回、裕二くんの写真の“棘”だと考えた、彼の行動範囲の狭さは、「匿名性」という言葉でポジティブに表現することができよう。中平卓馬が横浜近郊、即ち自宅近郊の写真を残していることは、「匿名性」のための重要な要素である。例えば、「被写体である野良猫にいつしか彼が写真家であると認識されるようになった」、ということを語る場面が劇中にあった。これは、まさに彼がその土地に根差すことが、猫の写真に匿名性を帯びさせる要因であることが分かるエピソードである。裕二くんもまた、自宅近郊で写真を撮り続ける中で、京都府八幡市の被写体と特別な関係性を築くことに成功しているのだろう。

 ところで、中平卓馬は自分の名前に対してこだわりを見せる。劇中、何度も自分の名前の由来を語る。父が、「馬鹿者としては一点卓れている」という意味を込めて付けたのだという。彼がこの由来を執拗に語ることこそ、「記録」として写真を撮り続けることが唯一の「創造」であると、彼が暗に告げている証左である。と同時に、この思想が「馬鹿者」を最大限肯定していることは、特筆に値する。自閉症(+知的障害)を持つ裕二くんに対して、沖縄の被害者意識を打つ彫刻家・金城実は、「お前は馬鹿で天才だ」と言った。金城の言う「馬鹿」は、文字通り馬鹿にしているわけではない。知的障害者に対しての等身大の見立てである。何より、「馬鹿」であると同時に「天才」なのだという。この金城の裕二くんに対する批評と、中平卓馬が自らの名前の由来として語る、彼の写真家としての思想がぴったりと重なる。裕二くんもまた中平卓馬と同じ、「a little excellent foolishest man」に違いないのだ。

【連作批評】「障害者と旅する」第七回 textたくにゃん

「障害者」と「健常者」の現在進行形(1)

 

  映画『DOGLEGS』にみる現代人における強迫観念

 

 「障害者」、そして、「健常者」にとって、現代とはどのような時代なのだろうか。それは、今この時を世界でも有数の大都市・東京で生きる、人の心が端的に映し出しているのかもしれない。では、そんな人の心を誰がどうやって、私たちの目の前に曝してくれるというのか。私が出会ったその一人は、NZ出身のヒース・カズンズ。彼が五年の歳月をかけて撮った初の長編ドキュメンタリー映画、『DOGLEGS』がそれだ。

 一九九一年から二十五年間、東京を中心に活動している障害者プロレス団体がある。その名は「ドッグレッグス」。リングに上がるのは重度・軽度を問わない身体、知的、精神障害を持つ選手たち。その多様性は、プロレスにおける「見せ物」という要素を充分に担保している。しかし、中には癌や性同一性障害といった病気を抱える選手もいる。それもまた、「見せ物」としての面白みを増す要素にもなりうるが、彼/彼女らが「障害」以外の側面を前面に出していくことには、何か別の背景があるはずだ。そこに、時には健常者さえもがリングに上がる「ドッグレッグス」の本質があることを、『DOGLEGS』は知っている。

 本作では、中心選手であるサンボ慎太郎や愛人(ラ・マン)と並んで、中嶋有木という選手にも長い時間カメラが迫っている。彼はスクリーンに、重度の身体障害で近年はアルコール中毒となっている愛人の、介護者として登場する。だが、のちに彼もまたリングに上がる選手であり、癌と鬱病を抱えていることが明かされる。中盤、彼の自宅だろう一室で、鬱状態と思しき彼の姿が映し出される。その部屋はゴミ屋敷かと一瞬目を疑うほどに物で溢れかえっている。ゲームセンターの景品にあるような、キャラクターのぬいぐるみが目につく。彼は部屋の中央部で、そのぬいぐるみのキャラクターたちの父親となって、それらと会話している。

「お父さん、大丈夫かなー?」

その異様さは、介護をしている時のしっかりしていた彼の姿とのギャップによって、一層引き立つ。しかし、彼の台詞によく耳を傾けると、鬱病ではない私たちのメンタリティと、方向性は同じであることが分かる。詰まるところ彼は、「頑張らなくてはならない」という強迫観念に押しつぶされそうになっていたのだ。その後に出場した試合で、1R57秒TKO負けを喫した彼は、リング裏で対戦相手にケンカを売ってしまう。スタッフに止められるが、今度は自分を殴り出す。最終的には、「ドッグレッグス」代表の北島に、「そういうこと(TKO)もあるんだよ」と慰められる。中嶋が精神的に追い込まれ、取り乱す様子が明らかにされる。

 同様の強迫観念は、本作の主人公・サンボ慎太郎にも見受けられる。彼は普段、清掃員として働いている。そもそも本作は、池袋駅前の雑踏の中でゴミ拾いをしている彼をさりげなく映すシーンから始まっているのだが、彼がリングに上がり続ける理由が、彼の日常にあることを暗示している。ところで、彼はリングの上で健常者のアンチテーゼ北島に宣戦布告してから、二十年近く負け続けている。そして、自身の引退を賭けた試合でも負け、勝者が引退するという北島が決めたルールによって、あえなく現役続行を強いられる。実は、彼の引退が延びたことを一番残念がっているのは彼の母親だと思われる。実家で彼女に、引退することを彼が仄めかした際、彼女は彼が早く引退してくれたら嬉しいと思っていることを詳らかにする。そんな彼女が自宅で独白するシーンにおいて、彼女はサンボ慎太郎を育てた中での後悔を口にする。彼女は自宅でドッグトレーナーをしているようで、3、4匹の犬をしつけているのだが、そこでこんな台詞を口にする。

「(犬に対して)絶対おしっこしても叱りません」

「(サンボ慎太郎に対して)叱らないでやればよかった…」

子どもの適切な成長にとって、母親との関係が最も重要であることは、劇中でも嶋守先生が講義してくれるところだ。つまり、サンボ慎太郎が仕事でステップアップしてプロポーズも成功させたいと思うことや、リングの上で健常者であるアンチテーゼ北島に勝つことに固執する背景には、幼い頃から強いられてきた「頑張らなくてはならない」という強迫観念があることが分かる。

 さて、この強迫観念を主人公が克服する物語ならば、スクリーンは圧倒的なカタルシスを鑑賞者にもたらすだろう。だが、本作の主人公・サンボ慎太郎は最後まで健常者のアンチテーゼ北島には勝てない。想いを寄せる女性へのプロポーズも、介護者の予想通り撃沈する。であるならば、本作が伝えたいのは、「障害者は健常者には敵わないし、普通の幸せを手にすることも困難な存在なんですよ」、というメッセージになるのか。確かにそういった現実も忘れてはならないが、最も肝心なことは、負け続ける日々をどのように肯定して生きていくかということに尽きる。出来ないことが出来るようにならなければいけないと、本人が思っていたとしても、出来ないままで生きていく意義ある日々があるのだ。例えば、彼は仕事の中での試験には不合格となったが、二人一組でその仕事をすることが許可される。本人は、不合格となってお世話になったスタッフに対して申し訳のない気持ちで一杯なのだが、スタッフたちは彼に仕事を計らった上に、「終わったことは気にするな」と声をかける。また、引退を賭けた試合の直前、勝ち目はまず無いにもかかわらずサンボ慎太郎が勝った時のマイクパフォーマンスを考えていることに対して、アンチテーゼ北島は露骨に呆れてみせる。それでも、考えることを止めないサンボ慎太郎は、勝ち負け以前に自分の立場をただただ楽しんでいる。この時の無邪気なサンボ慎太郎の表情に、鑑賞者はハッとさせられる。彼らは、本質的には勝つためにリングに上がっているのではない。彼らは、強迫観念に駆られる日常を生き抜くために、非日常を必要としているだけなのだ。だから、リングの上で負け続けていたとしても、彼らは最高にカッコイイ。彼らを応援するファンがいる限り、彼らはリングの上では輝いていられる。そして、日常に戻った時でさえ、心優しい人が周りにいさえすれば何とかやっていけるのだ。

 

 *

 

 最後に強調しておきたいことがある。障害者も健常者も、分かり易く言えば大都市 東京に生きる我々全員が、「頑張らなくてはならない」という強迫観念に多かれ少なかれ迫られていることは述べてきた。しかし、その圧力が、もっぱら障害者や病人に対して強く負荷をかけていることを忘れてはならない。と同時に、であるが故に彼らにはリングという舞台が用意されているのだとも言える。確かに、社会的に弱い立場の人ほど将来が不安になる。だから、サンボ慎太郎がパートナーを欲しいと思うことは道理だ。愛人には素敵な奥さんと良い息子がいる。彼らのような家庭を築けたならば、それは幸せだろう。という風に思ってしまうのであれば、初心に帰ろう。即ち、やはりリングに上がることが近道だろう。代表の北島は著書、『無敵のハンディキャップ』の中で、次のように述べている。

障害者について思考停止状態になっている健常者たちにとって、理解し難い衝撃を与えるはずだ。これなら、障害者プロレスなら、固定化された障害者やボランティアのイメージを揺り動かすことができるかもしれない

一九九三年、天願大介監督が「ドッグレッグ」を撮ったドキュメンタリー映画、『無敵のハンディキャップ』から二十三年の月日が流れたというのに、また新たな映画監督の心を動かした「ドッグレッグス」。障害者プロレスの真価は、二〇一六年の今こそ問われているのだ。

【連作批評】「障害者と旅する」第六回 textたくにゃん

一流野球選手の身体の転回に観る全身まひ者(5)

 

  「大きな丸い物」と「噴き出す水」

 

 劇団「態変」の旗揚げ公演から、『水は天からちりぬるを』公演までの間には、四年弱の月日が流れている。その間、筋ジストロフィーを持つK君という団員の死があり、彼の「やるんやったら徹底してメジャーを目指せばええんや」という言葉に背中を後押しされて臨んだ、新宿タイニイ・アリスでの東京公演や、そんな彼の追悼公演が「取り壊される直前の吹田市民会館」にて行われたりしている。しかし、『水は天からちりぬるを』という作品に対して直截的に影響を与えたのは、金の妊娠・出産・育児という出来事だった。金が三十二歳になった一九八五年十二月十九日、帝王切開によって生まれた赤ん坊を金は「“里馬(りま)”」と名付けた。「音の感覚を大切にして、男っぽくもなく女っぽくもなく、日本らしくなく挑戦らしくもなく、日本語でも朝鮮語でも読みが同じ、という条件を選んだ」という。ここにも〈間性〉への意識が感じられる。そんな赤ん坊と「悪戦苦闘」する(金が全身まひ者だという事を思いだされたい。腕の力も大してないので、授乳一つとっても特殊な体勢を考案しなければならなかった)生活を経て、次のように述べている。

 一人で暮らすことも演劇をすることも、それまでの私にとってまったく想像もしないことだったが、子どもを持つ、というのはその中でも最大級のものだった。

「自分一人の身を張って生きることは、恐いもの知らずでキッパリしていて清々しくていい、と思っていた」金は、「自分の子さえ良ければいい、というエゴイスティックな感情」「を起させる子育てという」「社会悪だとさえ思っていた」経験を通じて、「私が私として生きるために必要で、そのために紡ぎ出してしまったもの」「自体には、良いとか悪いとかの注釈をつけようがない」という思想に至る。そして、金の作品にも大きな変化が起こる。それまで、「障害者が舞台の上から」「見る人を挑発していく、という傾向が強かったのだが、」「表現はもっと掘り下げられ、もっと内面的なものに変わっていく」。

 さて、いよいよ(3)の冒頭に引用した、『水は天からちりぬるを』の導入シーンを見ていこう。観客の手で上がった舞台の上で、服を脱いで鮮やかな色のレオタード姿になった役者たちは、「化粧をしだす」。これは金によると、「本来の自分にかえって楽しんだり遊んだりしているうちに、また色々なものを付着させてしまう、ということを表わしている」らしい。その後、この作品が向かった先の流れは、金の記述をそのままに引用させて頂く。

 そして今度は、透明の丸いボールに水をなみなみと満たし、それで顔の化粧を洗い落とす。最後には、舞台中央に置いてあった白い大きな丸い物から舞台全体に水が噴き出し、役者たちは水を得た魚のようにその水で潤い、喜びに興じながら、終いには潤いの源である白い物体までもを壊しだし、嬉しそうに去る。

ここで再び本稿は、『God Bless Basebll』(以下、『GBB』とする)の舞台へ視線を戻すことになる。『水は天からちりぬるを』(以下、『ちりぬるを』とする)と『GBB』の結末に、いくつかの共通項が見受けられるからだ。まず、目に見える物質としてのそれは二つある。「大きな丸い物」という個体と、「噴き出す水」という液体だ。『GBB』における「大きな丸い物」とは、舞台中央壁面上部に掛けられた「アメリカ」(もしくは「God」)を象徴する粘土で出来た物体である。それがクライマックスでは、ホースから「噴き出す水」によってボタボタと形状を崩しながら破壊されていく。一方の『ちりぬるを』では、「舞台中央に置いてあった白い大きな丸い物」から水が噴き出す。その点では、『GBB』とベクトルが真逆である。が、最終的には破壊される点は同じだ。また、噴き出す水は役者の化粧を「洗い落とす」。これは、『GBB』で「アメリカ」が粘土をボタボタと落としていくことと重なる。これらの親和性は、目に見えない物質(気体)=精神的テーマとしての共通項を携えている。それは、「創造と破壊」である。金は次のように述べている。

 この芝居には「人間のエネルギーはつまるところ創造と破壊の繰り返し」という私の信条が色濃く出ているが、こうしてみてみると、やはりこれは子どもを産んでしまったという実感がつくらせた芝居だとつくづく思う。

『GBB』において、「アメリカ」を破壊していく場面は、「ここからは未来の話」という台詞と共にわざわざセクションが明確化される。それは、「創造(/想像)」という営為を際立たせる演出だったのだ。そこには、「水」という、人間にとって欠かせない普遍的で流動性のある物質が重要な役目を果たしていた。もっともその「水」は我々にとっての「脅威」を表象していた。「ミサイル」や「原爆」、「放射性物質」を想像した観客は少なくないはずだ。日本と韓国は、それらの「脅威」から身を守るために、「アメリカ」という傘の下に佇んでいる。そこから飛び出した少女の国籍は明確化されていないが、彼女はホースから噴き出す水を一身に浴びてビショビショに濡れる。『ちりぬるを』において化粧を洗い落とす役者のような、「喜び」の表情こそはないが、だからこそ能動性がリアリティを持って観客の身体に迫っていた。

 ところで、『ちりぬるを』における「大きな丸い物」とは、具体的には何を表象していたのだろうか。金は次のように振り返っている。

 中央の丸い白いものはたぶん子どもに与えつづけるおっぱいであり、潤う水は、吸われつづける乳だろう。現にこの時の舞台では、おっぱいがパンパンに張り、舞台上でレオタードにおっぱいがにじんでいたほどだった。

目に見える物質として共通項を持った「大きな白い物」と「噴き出す水」だが、岡田利規と金満里による時代の違う作品においては、当然のことながらそれが目に見えない物質=精神的テーマとして表象するものは全く違った。しかし、それは見方を変えるだけで世界の捉え方が変わることを端的に示しているに過ぎない。肝心なことは、そんな創造と破壊を「繰り返す」ことだろう。「誰が止めようとしても、社会の「異物」として排除される存在は、世の中に産まれつづける」のだから。

 

  ゲームセット 

 

 『GBB』は、九月に初演が行われた光州(韓国)と十一月に行われた東京以外の都市での公演は予定されていない。しかし、チェルフィッチュの演劇は過去に海外ツアーを成功させるなど、世界の様々な都市で上演されてきた。前作『スーパープレミアムソフトWバニラリッチ』(二〇一四年)は、マルセイユ(フランス)、モスクワ(ロシア)、リオ・デジャ・ネイロ(ブラジル)、グアナフアト(メキシコ)、モデナ(イタリア)、更にドイツとスイスでは各三都市を回っている。そんなチェルフィッチュですら行っていない地域の一つとして、アフリカを挙げたい。実は、「態変」は初の海外公演を何とケニアで成功させている。時は一九九二年、『Heavenly Forest』という作品がナイロビの他、カカメガの盲学校のホールとキスムという地方を含めた三都市で行われている。その後の作品も、エジンバラスコットランド)、ベルリン(ドイツ)、クアランプール(マレーシア)、ソウル(韓国)などで度々上演されている。・・・そう、全身まひ者の金満里が主宰する劇団「態変」は、二〇一六年現在も精力的に活動していた。今年の三月には東京公演がある。チケットは既に販売開始されている。タイトルは『ルンタ(風の馬)~いい風よ吹け』である。去年公開された池谷薫監督の最新ドキュメンタリー映画『ルンタ』を思いだす。それは、抗議行動として焼身自殺する若者が跡を絶たないチベットの現在を映した作品だった。「態変」の『ルンタ』もチベット問題を扱った作品なのだろう。もっとも、主題がどこにあるのかは観てみなければ解らない。ただし、そこにはきっと「創造と破壊」の精神が息づいているに違いない。

【連作批評】「障害者と旅する」第五回 textたくにゃん

一流野球選手の身体の転回に観る全身まひ者(4)

 

  マイノリティにおける〈間性〉を経た、旗揚げ公演『色は臭へど』

 

 前回は、『生きることのはじまり』に基づいて、金満里には劇団「態変」を旗揚げする前段に、七〇年代障害者運動との関わりとその後の沖縄への旅があったことを通して、彼女が今流行の言葉で言うところの「ダブル・マイノリティ」であることを駆け足で見てきた。だが、この「ダブル・マイノリティ」という言葉は便宜的な言葉であり、実際のところ当事者にとっての比重は千差万別である。また、そもそも「マイノリティ」であるということに過度な重心を置いていない人もいる(前回も紹介したインド映画『マルガリータで乾杯を!』の主人公 ライラは、脳性まひ者であろうがキャンパスライフを謳歌するし、バイセクシャルとして恋愛に熱中する。そこで描かれているのは、「ダブル・マイノリティ」であることの葛藤よりも、いかに自分らしく生きるかという普遍的なテーマであった)。金の場合、彼女の「意識にのぼったの」は、「〈間性〉」だった。在日朝鮮人というマイノリティに潜む〈間性〉と、全身まひ者というマイノリティに潜む〈間性〉のことだ。二つのマイノリティの間、という意味ではない。そこで、彼女は沖縄という〈間性〉を持つ場所に惹かれたのだった。「アメリカと日本の間で翻弄されてきた沖縄」に。

 それでは、金が沖縄で得たものは何だったのか。彼女はこう言っている。

  私にとってこの時の沖縄は、夢によって癒され、自然と宇宙の繋がりまで感じさせてくれたものとなった。そしてこれは、私が今、「態変」の芝居の中で表現しようとしている、破壊・浄化・再生という宇宙観との初めての出会いであった。

抽象的な説明だが、まず彼女は沖縄の自然と触れ合うことで、哲学用語でいうところの「環世界」的な視点に行き着いたのであろう。そして、「態変」の芝居に通底しているというその「宇宙観」が、金の作品の蘊奥となる。しかしながら、彼女の沖縄での体験や「宇宙観」について掘り下げることはここでは割愛させて頂き、「態変」の一九八七年公演『水は天からちりぬるを』へ筆を進めていかなければならない。

 しかしながら、どうしても、八三年の旗揚げ公演『色は臭へど』についても紙幅を割かねばならない。そもそも、金は何故「演劇」の道へ進んだのか。旗揚げ公演を振り返り、金は次のように述べている。

 しゃべれる障害、という自分自身の中途半端さ。それを乗り越え、自分をトータルに表現するためには、身体全体をのびのび使いたい。そもそも「障害」そのものを認めさせるということが、障害者解放の原点であり、同時に帰結点でもあったはずだ。ところが、それが運動となったときにはどうしても“論”という言語に頼ってしまうという自己矛盾。そこから解放されたいという欲求が、私のなかで最大限に高まっていた。

彼女の中で「最大限に高まっていた」「解放されたいという欲求」は、『色は臭へど』の台本を彼女に一晩、五、六録時間で一気に書き上げさせた。そして、八三年六月に京都・大阪連続旗揚げ公演が幕を開ける。『色は臭へど』の第一幕では、金が一人「自分の身体の特徴を活かし、ヌメヌメ、ごろんごろんと寝っ転がったり這ったりしながら出てくる」。ここで、本稿で注目している『水は天からちりぬるを』においての疑問となっていた、役者が「レオタード」で出てくることの意義が明らかになる。

 私は、この芝居をする初めから、レオタードが役者の基本スタイルだ、と皆に言ってあった。身体障害者の身体性を最大の表現にするためには、身体の線が際立ち、皮膚感覚で、それでいて怪我から身を守れる、レオタードしかないと決めていた。そこで、しりごみする皆に有無を言わさず、私が第一幕に躍り出ることにしたのである。

劇作家としてのみならず、役者としても金は劇団「態変」を先導した。しかし、それはマルチな才能があったというよりも、「身体全体をのびのび使いたい」という感覚・欲求にしたがっただけのことだろう。演劇に力を注いでいく金の表現性にもまた、〈間〉性の力が感じられる。

【連作批評】「障害者と旅する」第四回 textたくにゃん

一流野球選手の身体の転回に観る全身まひ者(3)

 

  劇団「態変」旗揚げ公演前夜

 

 ある芝居小屋の客席にて。

 開演のベルを合図に客席の明かりがおちて真っ暗となり、しばらくすると役者の出を待つかのように舞台が明るく照らし出される。しかし、いっこうに役者のでてくる気配がしない。と突然、傍らの客が何か叫びだす。すると、あっちこっちから同じような声がしだし、何か大きなものを抱えて立ち上がる客たちが舞台へ向かい始める。はっとしてもういちど隣に目をやると、その人が障害者らしき人で、「うえに上げて、舞台に上げて」と絞り出すような声で呼びかけているのがようやく耳に入ってきた。

 あっ、そうかこの人を上げなくっちゃいけないのだ、やっとそれに気づいて、慌てて声の主を抱えて舞台まで上げにいく。そのようにして舞台へ挙げられた人たちが、舞台上のあっちこっちにごろごろ転がっている。と、転がりながら上の服を脱ぎだして、その下に着ている鮮やかな色のレオタード姿になるのが見えだす。ちょうど蝶の変態のように。

 ――私のやっている劇団「態変」の一九八七年の公演『水は天からちりぬるを』はこんなプロローグから始まった。

  

 引用したのは、金満里の自著『生きることの始まり』(1996年)の、「プロローグ・ミルク玉つぶし」の冒頭部である。何とも画期的な導入部を持つ演劇ではないか。役者たちは、何故レオタード姿になっていったのか。そして、この作品はどのような結末へ向かっていったのだろう。

 金は一九五三年、大阪府池田市で生まれた。母親が朝鮮の古典芸能の伝承者なので、金は在日朝鮮人二世だ。「十人兄弟の末っ子で、母親は四十二歳のときに、他の兄弟とは父親の違う子どもとして」金を産んだ。「そして三歳のときにポリオに罹り、それ以来、小児マヒの後遺症として全身麻痺障害者」となる。ここまでのところ、今流行の言葉で表現すれば、金はダブル・マイノリティの系譜に位置付けられることが分かる。(今年の秋に日本公開されたインド映画『マルガリータで乾杯を!』の主人公・ライラは、脳性まひに加えてバイセクシャルを持つというダブル・マイノリティの設定であることが話題を呼んだ。)そんな金の来歴、複数の多岐に渡る苦しみや抑圧については本稿では語りつくせない。だが、劇団「態変」の旗揚げ公演が行われた八十三年の前段にあった、金と障害者運動の交わりには触れておこう。

 彼女が十八歳で高校に入学した七十二年頃は、丁度青い芝の会の活動が活発化していく時期と重なった。七十三年八月、彼女は施設時代の友人を通じてグループ・リボンの会合に参加し、二回目でそこの副会長に抜擢される。このグループ・リボンは、関西に青い芝の会を作る準備組織として機能していた。同年十一月、金は優生保護法改悪阻止の集会に参加し、大阪から東京の厚生省前へも行くことになる。そこで、全国青い芝の会会長であった横塚とも言葉を交わしている。だが、七十八年に青い芝の会が解散し、障害者運動が分裂・拡散していく中で、彼女もまた新たな道を探していくこととなる。青い芝の先輩が「野垂れ死にの精神」と呼んだ自立生活を営む中で金は、「かねてから自分がしたかったができなかったこと、本当に身体がやりたがっていることだけ、しようと思った。そして、好きな音楽のコンサートとか、映画や、ダンスとかの舞台ものに行き出した」。ここに、舞台芸術家の小池博史が著書『からだのこえをきく』(二〇一三)の中で展開する持論、

「感覚」から発し、「悟性」へと至り、からだの深奥に落とし込んで造形化するアート

の、本質を押えた劇作家・金満里誕生の胚芽を見ることもできよう。「感覚」を取り戻した金は七九年十二月、「悟性」へと至るために沖縄へ向かう。彼女が二十六歳になったところだった。

 

 私は沖縄を訪れることで、その時の自分がおかれている状況、大きくいえば自分の社会的位置関係のようなものを、問い返したいと思っていたようだ。私の位置――それは、在日朝鮮人、つまり日本と韓国との中間に位置する存在であるということ。そして青い芝の混乱の中でも突きつけられた、自分が健常者と脳性マヒ者の間にいる、ということであった。