『スピラレ スキップト』

一回飛ばしの批評です。 2013年、渋谷にある映画美学校にて開講された「批評家養成ギブス第二期(主宰:佐々木敦)」の修了生有志による、批評同人誌『スピラレ』のWEBサービスw http://spirale.hatenablog.com/ twitter@spira_le

【連作批評】「障害者と旅する」第三回 textたくにゃん

一流野球選手の身体の転回に観る全身まひ者(2)

 

  脳性まひ者と七〇年代障害者運動

 

 「〈身体の一部が自分でない〉エクササイズ」を行うため、四人の役者が舞台の前に出てきて、中央に横並びする。向かって右から二番目の「イチロー」がインストラクターとなる。両手を前方に突出し、手首から先をぶらぶらとさせてみせ、「手首から先が、自分じゃない」と発声する。三人も倣う。「肘から先が、自分じゃない」、「肩から先が自分じゃない」。靴を脱ぎだし、「足首から先が、自分じゃない」、「膝から先が、自分じゃない」、「腰が、自分じゃない」、「首から下が、自分じゃない」。この時点で、四人の身体は手足をあらぬ方向へと振り乱し、凡そ自らの意思に逆らう肢体と化している。柔軟性といい、その狂気振りは圧巻である。だが、本当の驚愕はその後に待っていた。残すエクササイズが幕を開ける。「首から上が、自分じゃない」。狂気は速度を上げ、もはや彼らの意思は何者かの力に包含され、その演技は激しさの極点へ登り詰める。その時だった。「イチロー」の姿が、ある虚像と重なって見えた。「イチロー」役の捩子ぴじんは、どちらかといえば日本人にありがちな猿顔的要素を持った顔立ちだが、それに加えて床に膝を付けて、肢体をぐにゃりとさせ頭部も振り乱している錯乱状態の姿がまるで、原一男のドキュメンタリー映画『さようならCP』に出演している脳性まひ者、横田弘(一九三三~二〇一三年)にそっくりだったのだ。『さようならCP』は、一九七〇年代に一世を風靡した脳性まひ者(青い芝の会)による障害者運動と、その中心人物であった横塚晃一と横田弘らに迫った、映画監督・原一男の鮮烈なデビュー作である。横塚の代表的な著作に『母よ!殺すな』が、横田には『障害者殺しの思想』があるが、そのタイトルに端的に表れているように、青い芝の会は障害者の問題にラディカルな提言を行った、脳性まひ者による運動団体であった。『さようならCP』のラストシーンでは、路上に立つ(座る?)全裸の横田がカメラと対峙する。その画は決定的に印象的であり、今年刊行された『障害者殺しの思想』の増補版の、表紙を飾っているほどである。だが、どんなに横田が表象する脳性まひ者のイメージと、身体の全部が自分でなくなった「イチロー」の姿が重なるとしても、それは横田や脳性まひ者の姿を知らない観客からすれば、全く共感できない話であろう。勿論、知っている観客であったとしても、共感するとは限らない。では、単なる一解釈が偶然現出しただけだと、この体験を一蹴できるだろうか。否、この感覚を深化することで、『God Bless Baseball』という演劇作品全体の見かたまでもが変わる。その契機は、青い芝の会による障害者運動の直後の時代にある。

 二〇〇八年、生活書院から山下幸子著、『「健常」であることを見つめる――一九七〇年代障害当事者/健全者運動から』という書籍が刊行されている。山下によれば、七〇年代の障害者自立運動は三者体制で行われていた。「運動を担ったのは、青い芝の会やグループリボンといった障害者当事者のグループ、グループゴリラのような健全者運動組織だけではな」く、「もう一つ、「障害者問題資料センター・りぼん社」〔…〕という組織が一九七三年一月に結成されている。りぼん社は、「『さようならCP』関西上映実行委員会」のメンバー(健常者のみで、当時は反公害運動など社会運動を行っている者が多かった)を中心に構成され」ていた。この三者体制を明らかにした本著の功績は大きい。そこには、「青い芝の会とグループゴリラが存在した時間を「蜜月の時間」と」表現し、私たちの「健全者(健常者)性」を問う希少な視座がある。その中で注目したいのは、次の一文である。

関西の重度障害者としては、一九七五年、金満里が初めて自立生活をすることになる。

この「金満里」という人物は、一体何者なのか。山下はその多くに触れていない。彼女の存在に触れた書籍として思い出されるのは、上農正剛『たったひとりのクレオール 聴覚障害児教育における言語論と障害認識』(2003年)である。本著の中で上農は、金満里が「態変」という劇団を主宰していたことに、注の中で微かに触れているのみだ。

何だって?

二つの情報を繋げると、つまりこういうことになる。

重度の障害者が主宰する劇団が、かつてこの国には存在していた。(今も存在している?)

私たちは『God  Bless Baseball』という演劇作品の見かたを変えるために、この劇団「態変」と、金満里という重度障害者についてもっと知る必要がある。そのためにも、次回は金満里の著書、『生きることのはじまり』を手に取ることから始めよう。 

【連作批評】「障害者と旅する」第二回 textたくにゃん

一流野球選手の身体の転回に観る全身まひ者(1)

 

  プレイボール

 

 連載第一回となる前回は、二〇一四年公開のドキュメンタリー映画に主人公として出演した、自閉症(+知的障害)のアマチュアカメラマンの青年・米田裕二(以下、裕二君)が撮る写真そのものを批評対象とし、裕二君の撮影スタイルを写真家・鈴木理策の方法論と比較し、鈴木も参加者の一人である『写真分離派宣言』(二〇一〇)における鷹野隆大の起草文などを介して、裕二君の写真に残る生々しさ=「棘」について考察したが、それはいわば、〈作者が「障害者」である芸術作品に対する批評〉であった。今回は、〈作者が「障害者」ではない芸術作品に対する批評〉を行う。しかも、その作品のテーマや設定、登場人物等には、一切「障害者」が関係していない。意図的なメタファーの一つも感じられなかった。このような前置きをするのには当然理由がある。何故ならその作品は、以上のような前提条件があるにも関わらず、「障害者」が表象される驚愕の瞬間を持ち、私たちの〈「障害者/健常者」という言葉が存在しない世界を探す旅〉において、立ち寄ることを避けられない重要な一角であると考えられるからだ。そんな一角に位置する作品の中には、「ホームベース」という名の一角が在る。五角形のホームベース。そう、そこは野球場だ。

 

  イチロー

 

 岡田利規が主宰する劇団、チェルフィッチュの最新作『God Bless Baseball』は、タイトルにも「Baseball」とあるように、まず「野球」をテーマにした演劇である。それは、四人の役者のうち三十歳位の女優二人が、私服にグローブという恰好で登場し、「野球って面白いんですかー?」、「サッカーはゴールに入れば良いっていうのが分かり易いけど、野球は、例えば「回」っていうのがわからなくて」といった風な、「現代口語」台詞を口にしていることからも分かるように、全く野球のルールや面白さを知らない観客でもすんなり受け入れられる導入の上手さもさることながら、一人の男優が演じる四十歳位の男の背景が、〈野球好きの父親の影響で子どもの頃やっていた野球だがいつからか逆に関心が無くなってしまった〉という、多くの支持者を獲得しうる普遍的な要素であるといった設定に留まらず、「野球とは人生のアレゴリー」だという「イチロー」の台詞によって、「野球とは何か」という哲学的命題にまで直截的に迫るシーンがあることからも間違いない。また、二〇〇六年に行われたワールドベースボールクラシック(WBC)という、野球の世界大会(第一回)において、日本は優勝したが、勝敗数的には韓国に負けていたというエピソードに端を発し、これまでに言及した三人の役どころがどうやら韓国人である(このことは話が進むに連れて明らかになる)ことからも分かるように、多言語性を帯びた演劇でもある。(そこには、韓国人の役を日本人役者が日本語で演じているというような、奇妙な現象もある。そして、この「人称」の問題は本論では割愛する。)この様式に、平田オリザ青年団)とソン・ギウン(第12言語演劇スタジオ)の共同脚本・共同演出作、『新・冒険王』(二〇一五)への応答として見る向きも多分にある。『新・冒険王』は、二〇〇二年に日韓共同で行われたサッカーワールドカップをモチーフに、準決勝の韓国対イタリア戦の時間帯にトルコ(イスタンブール)のゲストハウスに居合わせた日本人・韓国人達を描いた、平田作品の特徴である「同時多発会話」に富んだ「現代口語演劇」である。だが、それに深入りすることはまた別の機会にしたい。『God Bless Baseball』で肝心なことは『新・冒険王』とは違った「身体性」へのアプローチである。メジャーなスポーツを扱った両作品であるが、その方向性にはいわば、ライトのポールとレフトのポールへと伸びるライン(白線)のように、九十度程の開きがある。

 さて、残すもう一人の男優が演じるのは、「イチロー」という唯一具体的な役柄が設定が為されている人物なのだが、彼の役は紛れもなく本作のキーマンである。(現実の「イチロー」の、野球選手という枠組みを超えて日本を背負って立つカリスマ性についてここで論じることは割愛する。)「イチロー」は、「(現実の)イチロー」の打撃フォームや仕草などの物まねを「YouTube」に投稿している「ニッチロー」の、その動画を観て練習したという打撃フォームや仕草を披露する。それを見る三人は、特に似ている/いないについて明言するわけでもなく、「イチロー」を「(現実の)イチロー」と認識している。もうこの時点で、この芝居に現実的な設定があるわけでないことは自明となるが、この役どころの「イチロー」すら「(現実の)イチロー」でないこともまた明らかである。この二重の非現実的な設定故に、本作は数々の驚くべき展開をみせていくのだが、特筆すべきは、「〈身体の一部が自分でない〉エクササイズ」を行うシーンである。これには、

「僕くらいになると、バットも体の一部だからね」

といった「イチロー」の台詞の後にくる、実際に小道具としてのバットを持った「エクササイズ」がある。そこで彼は、バットを持っていない方の腕の動きを(それはくねくねと波線を描いたりする)、バットを持っている方の腕でも再現してみせる。それが成功しているかどうかは微妙だ。なんとなく、そこに演劇的な身体の表出があるように感じはする。だが、その曖昧さは次に来るエクササイズのためのエクササイズであったとすれば、腑に落ちる。バットを身体の一部とした(?)人間による次なるレクチャーは、身体の一部を自分ではなくしていくという、方向性としては真逆のベクトル持ったエクササイズである。まるで、ヒットを放ったバッターが、一塁ではなく三塁へ向かって駆け出していくような(どちらもホームベースには帰って来るのかもしれないが)。しかもそれは、序盤で野津あおいが「超現代挙動」としてやってみせている、右利きなのに右手にグローブを嵌める仕草と同様のさり気無さで行われる。このエクササイズのシーンに本作の核心、即ち、快音を響かす批評的クリーンヒットを放つための、バットの芯が在る。

【短評】情報に遠近法は関係しない text綾門優季

贅沢貧乏『みんなよるがこわい』(三鷹北口共同ビル2階、2015年)は4人芝居というよりも1人+3人芝居で、1人の心中のネガティブな思考回路や葛藤が、3人の口喧嘩という形で表現される。

3人は同じ衣装を身にまとっていて、1人の寝ているベッドの下の狭い空間を更に三分割した、狭い狭い空間の中に押し込められており、上演中にそこから出ることはない。

極度に動きが限定されているため、少し動いただけで簡単に頭が下に、足が上になる。

3人の大きな動きといえば、自分の空間の隣の壁を叩いて干渉を試みること、自分の空間の照明をつけたり消したりすること、これぐらいしかない。

上演時間の大半は、ナンパをしてきたよく知らないひとに、心細い夜だからという曖昧な理由で、電話をかけるかどうかの逡巡に費やされる。

1人芝居であればあまりにも小さな出来事を、3人の豊かな表情と声色、バラバラのようで妙に一体感のあるコミュニケーションによって、まるで大きな出来事であるかのごとく誇張し、大風呂敷をじりじりと広げていく。

そこには被害妄想とも、遠い未来に本当に起こるかもしれない可能性とも取れる不安が滲んでいる。

ナンパをしてきたひとが電話をかけてみると自分のことをちっとも覚えていなかったというショックと、一見自分とは何の関係もないと思えるほどに距離感の遠いニュースが、自然と脳内に流れ込んで、感情を増幅させていく。

ここで重要なのは、情報に遠近法は関係しないということだ。

この作品のラストシーン、おなかがすいて夜中に食べる食パンが不味いというどうでもいい悲しさが、出来事の大小に関係なく、これからも生きていかなければならないことそのものへの絶望に繋がってしまう。

不安の堆積に押し潰されるのはその出来事が重いものだからではなく、タイミングが悪かったからなのだ。

 

リアリティのない設定を採用して、リアリティのある感情の機微を描くことに特化している作品が近年多いのは、現実の株価が急速に低落してきており、興味の方向がむしろ近い未来に向いてきているからだろう。

これまで以上に現実が酷くなる危機に敏感になるほうが、今を生きる人々にとって、生理的に受け取りやすくなってきているからだろう。

それは望むべき変化ではないかもしれないが、防ぎようがない変化でもあるだろう。

【長文批評】路傍の猫をめぐって――想田和弘 text村松泰聖

1.国内のドキュメンタリー

 

 日本におけるドキュメンタリー映画の隆盛は目覚ましい。キネマ旬報の年間ベストテンには久しく文化映画部門が設けられ、故・小川紳介が立ち上げた「山形国際ドキュメンタリー映画際」は1989年の第一回から現在まで隔年の開催が続けられている。ドキュメンタリー映画はほとんどの場合に役者や脚本が不要であり、最低限、カメラと被写体さえあれば作品の成立は可能であると言っていい。とりわけ2000年代以降はデジタル撮影の普及によって制作費が安価に抑えられるようになったこともあり、かつてないほどの劇場用作品が公開されている。

 日本のドキュメンタリーをこれほどの水準に押し上げた立役者たちの名は枚挙に暇がないが、あらためて彼らの作品を眺望してみるとき、不意にこの国の土壌を流れる固有の主脈が浮かび上がってくる。要諦を言ってしまえば、それは撮影する〈私〉=主体の問題にほかならない。多種多様な彼らの方法論は、いずれもカメラの自意識をめぐって展開されているのである。

 たとえば原一男。『極私的エロス』(1974年)で出産する自身の元恋人に図々しくもカメラを向けた彼は、続く『ゆきゆきて、神軍』(1987年)でアナーキスト奥崎謙三が振るう暴力を「加担の論理」(そもそも原一男がカメラを回さなければ、あのような事件は起きなかったのではないか?)によって過激に描いて見せた。原はカメラが被写体に及ぼす影響に極めて自覚的だったが、自覚的であるからこそ、その影響関係を逆手に取り、日常を異化するための武器として使用したのである。

 原と同様、カメラと被写体との関係を重要視した作家に小川紳介がいる。周知のように、小川は『日本解放戦線 三里塚の夏』(1968年)に始まる一連の作品で三里塚の農民に密着した。その密着は、しかし凡俗な意味の密着ではなく、むしろ共生である。農民とともに寝起きし、農作業に従事(その様子が作中で描かれることはないが)するなかで、徹底して状況の中心にカメラを置いたのである。全部で七本が制作された「三里塚」シリーズで最も土着的な印象を与える『三里塚 辺田部落』(1973年)の長回しは、農民生活の内的な時間をそのまま切り取ることに成功した好例であると言えよう[i]

 態度の違いこそあれ、原一男小川紳介の両者にはカメラを持つ者としての自意識が芽生えている。それはドキュメンタリーを劇映画から切り離す一定の尺度ともなろうが、しかし考えてみれば、日本に固有の問題であるとはいえないだろうか。たとえばマイケル・ムーアはドキュメンタリーによる絶対的な〈正義〉を振りかざし、しばしば二元論的と揶揄されるような視点からアメリカ社会の悪を告発している。それはきわめて攻撃的な姿勢であるが、原一男のように内省した方法論はみられない。あまりにもカメラの介入に無自覚なムーアの姿勢は、後述するフレデリック・ワイズマンにも共通するものである。いや、むしろドキュメンタリーの世界において、自身のカメラに無自覚であることが本来的な姿勢なのである。言ってみれば、日本のドキュメンタリー作家たちの自意識は総じて過剰であるのだ。撮ることそれ自体のあり方をめぐって彼らのドキュメンタリー論は展開され、その方法論が作品自体に露出しているのである。

 

 おそらくその過剰な自意識を突き詰めていった先に、森達也というドキュメンタリー作家がいたのだろう。彼の代表作『A』(1997年)は麻原彰晃逮捕後のオウム真理教を描いた作品である。「日本人のメンタリティ」をテーマに掲げ、教団内部でカメラを回していた森は、あるとき公安によるオウム信者不当逮捕(いわゆる転び公妨)の場面に遭遇する。オウム側は逮捕された信者を救うため、森に対してその瞬間の映像を証拠として裁判に提出することを求めた。しかし彼は逡巡する。むろんオウムを絶対的な悪とみなす社会通念には反対だが、しかしオウムに協力してしまうことは、業界人としてメディアの中立性を損なう禁忌ではあるまいか?

考え抜いた末に森が出した結論は、オウム側に協力し、証拠フィルムを裁判所に提出することだった。この事件を機に森は悟ることなる。カメラはけっして中立ではない。何であれ映像を撮るということは、撮影主体の意図を不可避に反映してしまうことなのだ。ゆえにドキュメンタリーに絶対的な真理や客観的事実、政治的中立性といったものはありえない。「つくづく思う。ドキュメンタリーは徹底して一人称なのだ」[ii]と。

 こうして『A』とその続編『A2』(2001年)で国内外から高い評価を受けることになった森達也は、その後テレビドキュメンタリーの世界でやはりタブーに挑む作品を制作した。撮ることの虚構性や暴力性をめぐってたえず煩悶し、その懊悩自体を主題化する森の方法論は、ゼロ年代の国内ドキュメンタリーに大きな影響を与えることになった。監督自身の置かれた状況を描き出す極私的な映画、「セルフ・ドキュメンタリー」が増加したのである。[iii]

このようにセルフ・ドキュメンタリーが乱立している状況に痛烈な批判を加えたのは、『阿賀に生きる』で知られる佐藤真だった。佐藤の指摘によれば、かつて集団制作を前提としていたドキュメンタリーは、時代の変遷にともない個人の場へとシフトしていった。とりわけ90年代以降、内的な不安を抱える若者たちは〈自分探し〉としての映像制作を行なうようになる。しかし、自分自身や自分の家族、あるいは民族を対象とする彼らの方法論は決定的に他者性を欠いているのではないだろうか、と佐藤は難色を示したのだ。もちろん先述した『A』のように、個人的な懊悩が社会問題に直結している場合もあるだろう。それでも佐藤は「台湾や中国の若い映像作家の作品が、徴兵制や国家の問題に正面からぶつかっているのに比べると、戦うべき相手を見出しかねている日本の若者たちの脆弱さには目を被いたくなるところもある」と指弾したのである。ちなみに、こうした佐藤真による批判は、『A』の撮影にも携わったプロデューサーの安岡卓治とのあいだに歴史的な論争を招くことになった。[iv]

 以上、ゼロ年代までのドキュメンタリーを俯瞰した。もちろん、それは過去形で語られなければならない。2007年には佐藤真が死去した。一方の森達也は活動の場を映像から文筆へと移し、当初は『A2』の続編として撮影が進められていた『A3』も結局は書籍の形で発表された。佐藤と森、二人の監督が現場から退いたとき、時代は2010年代を、そして震災〈以後〉を迎えることになったのだ。

 

2.観察映画の時代

 

森達也が『A2』以来十年ぶりにメガホンをとった劇場用ドキュメンタリー『311』(2011年)は、ひとつの時代が終わったことを告げる晩鐘であった。地震後わずか15日で被災地に向かった森達也ほか撮影クルーだったが、予想以上の被害に身動きがとれなくなる。何の計画も装備もない彼らは原子力発電所に立ち入ることもできず、遺体にカメラを向ければたちまち被災者に叱責される。仕方なしに彼らは動揺する自分たちの姿をカメラに写す。やはりここでも森達也は撮ることに対する煩悶を主題にしようとしている。プロの作家であっても立ち入ることのできない状況を前に、森は〈撮ること〉の失敗それ自体を映画にしてしまったのだ。作品としての評価はさておき、それは彼の方法論が限界を迎えたことを露呈してしまったのである。

 たとえば萩野亮は、『311』の失敗と森達也の凋落を次のように推断している。

 

2011年に『311』を安岡卓治らと共同で発表した森達也は、この作品でも「作り手のためらいと煩悶」を主題化し、両極の賛否をまねいた。森が「ドキュメンタリーの原罪」と呼ぶ「撮ることの加害性」は、かつては対象となるテーマ(タブー)ときわどく釣り合っていた。森達也はこの映画では「向こう側」へ渡ることにいわば「失敗」し、その失敗を作品化しようとした。それはこういってよければ「時代錯誤」なふるまいではなかったか。自己批評を方法化した森達也「時代」とは、ブッシュやムーア、小泉純一郎らとメディアの結託による善悪二元論の「わかりやすさ」へのカウンターとして時機をえたものであり、かれらが退場したいま、その自己批評はむしろ空転した「自家撞着」に陥っているといわなければならない。[v]

 

 震災以後、もはや「作り手のためらいと煩悶」は通用しない。監督の極私性を主題とする「自己批評」的なゼロ年代の潮流は、『311』によって確実に変わったのである。だとすれば現在、すなわちテン年代のドキュメンタリーはどのような傾向を見せているのだろうか。萩野も指摘していることであるが[vi]、その中心は明らかに「観察映画」へ移行したと言えよう。

 

 「観察映画」とは、想田和弘の提唱するドキュメンタリー制作の方法論である。それは「簡単に言えば、撮影前に台本を作らず、目の前の現実を撮影と編集を通じてつぶさに観察し、その過程で得られた発見に基づいて映画を作る」ものであると説明されている[vii]。その実践として、想田は川崎市市議会補欠選挙に出馬した落下傘候補の奮闘を描いた『選挙』(2007年)を発表し、国内外で高い評価を受けることになった。さらに、「観察映画第2弾」と銘打った『精神』(2008年)、続く「第3弾」の『PEACE』(2010年)と、現在にいたるまで想田は一貫したスタイルで作品を制作し続けている。

台本を用意せずに撮影を進める手法は、彼がテレビドキュメンタリーを制作していたときに感じた違和から生まれたものである。一切の先入見を排し、前もってテーマを掲げることもなく、制作費はすべて自己資金で賄うこと――徹底したスタイルの構築により、想田は「分かりやすさ至上主義」と「台本至上主義」に塗れたテレビドキュメンタリーと決別したのである。

さらに「観察映画」を際立たせる特徴として「三ない主義」が挙げられる。すなわち、ナレーション・テロップ・音楽の排除である。想田によると、「それらの装置は、(使い方にももちろんよるが)観客による能動的な観察の邪魔をしかねない。また、映像に対する解釈の幅を狭め、一義的で平坦にしてしまう傾向がある」[viii]。すなわち「観察映画」の「観察」とは、撮影者による被写体の「観察」を意味すると同時に、観客による作品の「観察」も意味しているのである。すべての解釈は観る者に委ねられているのだ。

ところで、この「観察映画」は想田和弘の独創によるものではない。主観を排する彼の姿勢は、一般に「ダイレクト・シネマ」に由来するといわれている。ダイレクト・シネマとは、1960年代にアメリカで勃興したドキュメンタリー運動であり、ナレーションなどの力を極力借りずに、現実の映像と音だけを用いてすべてを直接に描こうとするものだった。ロバート・ドリュー監督による『大統領予備選挙』(1960年)をその端緒として、当時の社会情勢をニュースとは異なる角度から切り取ったドキュメンタリーが盛んに制作されたのである。東京大学を卒業後にニューヨークで映画製作を学んだ想田和弘は、自身も認めるように、明らかにこうした米国映画史の文脈を引き受けている。

そのダイレクト・シネマの延長線上に、想田が師と仰ぐひとりの偉大な映像作家がいる。フレデリック・ワイズマンである。彼は処女作の『チチカット・フォーリーズ』(1967年)以来、アメリカ社会を切り取った膨大な量の作品を発表し続け、そのいずれもがドキュメンタリーとして(いや、むしろドキュメンタリーとフィクションの境界など取り払った上で)比類なき域に達している。先述した台本を用いない撮影や「三ない主義」を徹底し、禁欲的スタイルを貫いてきたワイズマンのドキュメンタリーこそ、想田和弘および「観察映画」の源流であると言えるだろう。

 

 ――だが、ここでひとつの疑念が生じる。確かに想田和弘自身、ダイレクト・シネマやワイズマンの作品から多大な影響を受けたことを明言している。そして当然、その手法も一致している。しかし、本当にそれだけなのだろうか。もはや想田和弘という作家を日本の文脈に位置づけることは不可能なのだろうか? 多くの共通項を持ちながらも、「観察映画」から受ける印象はワイズマンのそれとどこか異なっている気がしてならないのだ。私たちはそれを主題の違いや国柄の違いとして片付けることができない。「観察映画」には、単なる「観察」に還元されないある種の「温かさ」が存在しているのである。

 そう考えてみるとき、私たちの脳裏にひとりの作家の名前が浮かび上がってくる(そういえば彼もまた、最高学府を卒業し西洋へ赴いたのだった)。ならばセルフ・ドキュメンタリーの隆盛と批判を、日本のドキュメンタリーに特有である〈主体〉の系譜を、もう一度歴史の文脈に位置づけてみることにしよう。しかし今度は映画史の系譜ではない。紛れもなく、それは文学史系譜である。

 

3.「猫」の肖像

 

 文筆活動を開始した当初、「余裕派」を標榜する夏目漱石が文壇から軽視されていたことは広く知られている。明治30年代後半の文壇で反自然主義の立場をとることは反文学の立場をとることに相等しい。にもかかわらず漱石の初期作品に一貫している写生文の姿勢は、「現代日本の開化」が引き起こす〈主体〉の相剋に懊悩する作家の出したひとつの解答であると同時に、いわばドキュメンタリストとしての漱石の一面を垣間見ることができるものでもある。ひとつ彼の言葉を引用してみよう。

 

写生文家の人事に対する態度は貴人が賎者を視るの態度ではない。賢者が愚者を見るの態度でもない。君子が小人を視るの態度でもない。男が女を視、女が男を視るの態度でもない。つまり大人が子供を視るの態度である。両親が児童に対するの態度である。世人がそう思うているまい。写生文家自身もそう思うているまい。しかし解剖すれば遂にここに帰着して仕舞う。〔…〕写生文家は泣かずして他の泣くを叙するものである。[ix]

 

 この中で漱石が追求する「写生文」は、日本文学が取り入れた独自のリアリズム、すなわち自然主義文学でもなければ、本来の西洋的なリアリズムでもない。それは両者の価値観に板挟みになった結果案出された「観察的」リアリズムにほかならない。「泣かずして他の泣くを叙する」ことは決して非人情の態度ではない。それはいわば「両親が児童に対するの態度である」と漱石は述べる。たとえば『吾輩は猫である』は登場人物の性格や構成、主題が欠如した作品であるが、それでもこの小説が当時の大衆人気を獲得し、現在にいたっているというのは、この「観察」の妙味にあるといってもいい。

 

 これまでに述べてきたドキュメンタリー作品の布置をあらためて整理しよう。そもそも近年におけるセルフ・ドキュメンタリーの隆盛と、それに対する佐藤真の否定的な態度(自身や家族の出自を描くセルフ・ドキュメンタリーが素材先行主義になりかねないという懸念)は、大正期の文壇で沸き起こった私小説論争の再掲にすぎない。そして同様の反復は、さらに時代を遡行して明治30年代、私小説の素地となった自然主義文学の誕生においても見出されるはずだ。周知のように日本の自然主義は西洋における自然主義の歪曲として、田山花袋『蒲団』に代表される〈告白〉の形式を生み出しているが、それは日本のドキュメンタリーに特有である極私的映画の〈告白〉性と重ね合わせることができるだろう。

 ならばその一方で、ワイズマンに代表されるダイレクト・シネマの手法を、西洋における本来の自然主義(ゾライズム)と重ねてみることも難しくない。主知主義的、あるいは一神教的なワイズマンのまなざしは、しかし想田和弘の「観察映画」とは似て非なるものである。なぜなら、ワイズマンはカメラと被写体とのあいだの影響関係をほとんど考慮していないからだ。舩橋淳によるインタビューのなかで、彼は次のように答えている。

 

〔…〕キャメラは現実を変えないとわたしが主張する理由が、われわれ人間のほとんどが、突然別人のように振る舞えるほど演技能力には長けていないということだ。もし、突然キャメラが現われ、自分が撮られたくないのであったら、嫌がるようすをしたり、歩き去ったり、「撮らないで」と言ったりするはずだ。ひるがえって、撮影されることに同意したひとは、自分がわかっている「適切」な行動をとっているはずなのだ。人びとが自分のおかれている状況に対して「適切だ」と思う行動を取るさまをキャメラで捉える、それがまさしくドキュメンタリー作家としてのわたしが求めているものだ。[x]

 

 たとえカメラが回っていたとしても、人間はそれぞれが振る舞うべき「適切」な行動をとるに違いない。したがって、被写体の状況にカメラが介入してしまうことはない。ワイズマンはそう述べている。少なくとも、それは最初に述べた原一男の「加担の論理」とは対蹠的な発想である。それどころか、おしなべて撮影〈主体〉と被写体との距離感に意識的であった日本のドキュメンタリストたちの思想とも、けっして相容れることがないだろう。

 だが想田和弘という〈主体〉は、ワイズマンのような透明な存在になりきれていない。その性質上、ワイズマンの作品にカメラ目線が入り込むことはありえないが、想田の「観察映画」には時折カメラを見つめる目線があらわれる。それを想田の手落ちとして捉えることも十分可能だろう。しかし、むしろその手落ちこそがカメラと被写体とのあいだの関係を担保しているのである。

 事実、想田は自身がワイズマンのような「透明人間」になりきれていないことを告白している。確かに当初は可能な限りカメラの存在を消そうとしていたが、『精神』の撮影時、被写体となる患者たちがどうしてもカメラに向かって話しかけてくることに困惑を覚えてしまったというのだ。ワイズマンならそういったシーンは編集でカットするに違いないが、しかし想田の場合はそれができなかった。こうして彼は身をもって知ることになる。「現実と作家が無関係でいることは、ありえない」のであり、「観察映画では必ず、作り手である僕自身も含めた観察になるわけである」と[xi]

 

そろそろ擱筆としよう。結論から言って、漱石の定義する写生文こそ「観察映画」の源流である。想田和弘はダイレクト・シネマやワイズマンのように〈主体〉=〈撮る私〉を透明化し、一神教的な人称を採用することを徹底できていない。と同時にセルフ・ドキュメンタリーの「露骨なる描写」、あるいは〈撮る私〉にカメラを向けた結果陥ってしまった森達也の「自家撞着」も巧妙に回避している。漱石が『文学論』の冒頭で掲げたあの「F+f」の公式をいささか強引に当てはめるならば、観察映画はダイレクト・シネマにおけるF=「焦点的印象又は観念」の偏重も、極私的映画におけるf=「情緒的要素」の偏重も避け、結果的にその両立「F+f」を可能にしているのである。

言ってみれば、想田和弘という〈主体〉=「吾輩」は、自己を無名の「猫」に仮託することによって存続しているのだ。「観察映画」とは、日本のドキュメンタリーがその〈主体〉をめぐって思案し続けてきた方法論の、極めて日本的な到達点にほかならない。『PEACE』のなかで繰り返し描かれた猫とは、かつて夏目漱石が描いてみせた、新しい時代を告げる「猫」のことだったのである。

 

[i] 小川紳介を語る以上、彼と比肩するドキュメンタリー作家、土本典昭の名を挙げないわけにはいかない。カメラマンとして駆け出しの時分、ファインダーを向けた水俣病患者から辛辣な言葉を浴びせられたという土本は、臍を固めて水俣の地に移り住み、患者たちに寄り添う作品づくりをおこなったのである。その結果として生まれた『水俣 - 患者さんとその世界』(1971年)や『不知火海』(1975年)といった作品群がいかに傑出した作品であるのかは贅言を要しない。小川紳介と同様に、土本もきわめて土着的な方法論を備えた作家だったと言えるだろう。

[ii] 森達也ドキュメンタリーは嘘をつく草思社、2005年、74頁。

[iii] すべてを列挙することはできないが、代表例として松江哲明『あんにょんキムチ』(2000年)や小野さやか『アヒルの子』(2005年)などを参照されたい。なお、ゼロ年代におけるセルフ・ドキュメンタリーの増加傾向に関しては、もちろん森達也の影響だけでなく、ハンディカムをはじめとするデジタル機器の普及も考慮する必要があるだろう。

[iv] 2002年から翌年にかけて「メールマガジンneoneo」上で展開されたこの論争は、現在、以下のサイトで参照することができる。http://newcinemajuku.net/report/150328.php

[v] 萩野亮「ドキュメンタリーは嘘をつく――森達也とその時代」、ドキュメンタリーカルチャーマガジン『neoneo』第3号、neoneo編集室、2013年、22-23頁。

[vi] 同書、23頁。

[vii] 想田和弘『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』講談社、2011年、50頁。

[viii] 同書、63頁。

[ix] 夏目漱石「写生文」、『漱石全集』第十一巻、新潮社、1966年、21頁。なお、表記は現代仮名遣い・新字体に改めている。

[x] 土本典昭鈴木一誌編『全貌フレデリック・ワイズマン岩波書店、2011年、27頁。

[xi] 想田前掲書、170頁。

【短評】だれもが浜辺をただよう凧、あるいは岸辺を旅する人-原田宗典「メメント・モリ」と黒沢清『岸辺の旅』に見る彼此のあわい- text安里和哲

 原田宗典が「新潮」8月号に発表した「メメント・モリ」。「私」が遭遇した生者と死者、常人と狂人についての記憶の断片が、長い歳月をあっちこっち飛びながら描かれている。古い友から届いた久しぶりの便り。胸の高まりに急かされて、部屋に戻る前に封筒を破ると便箋はとつぜんの風に飛ばされる。順番のめちゃくちゃになった何十枚もの便箋を拾ったそばから次々に読むような気分。

 とはいえこれは小説なのだから、作者・原田宗典が意図した順番に並んでいるに決まってる。けれど実際、この小説はどこを拾って読んでもすこぶるおもしろいのだ。ネパールで牢屋に入った男、紛争に参加しメコン川のそばに住む日本人の若者、100円ライターのガスに夢中のパグ犬などなど「私」が会ってきた人びとについての話、そして「私」自身の話は、一度読むとふと思い出して笑ったり、考えいったりしてしまう。そしてたまに拾い読みしたくなる。そういう魅力のある小説だ。

 でも、以下では考えいってしまったことについて、少し書いてみよう。この小説について考えることは、いま、とても大事なことだという直感があるのだ。

 

 生者と死者、常人と狂人の境界が「メメント・モリ」では曖昧模糊としている、が、しかし、一度彼岸(死・狂)に行ってしまえば、それは舞台の照明が落ちる「暗転」や、瞼が縦に閉じるような「反転」であり、だからそこから帰ってくるのはむつかしい。不可能ではなくむつかしい、と言ったのは、「私」が彼岸から帰ってきた男だからだ。

 夫婦ゲンカの果てに首を吊ったときの「暗転」、躁うつ病覚せい剤の使用、その末の逮捕といった「反転」。「私」はそれらの彼岸に足を踏み入れてしまっても帰ってきた。死にもの狂いで? そうかもしれない。しかし「私」がどのようにしてカムバックしたのかは、ここに描かれない。

 ただただ、さまざまな生と死、正と狂の記憶が、事の重大さに比較してあっけらかんと、『十九、二十』の頃を思い出させる爽やかさでもって語られていく。留置場で18番となった「私」は、18を経て「大人の不純さ」に気づいて19、20歳の青年に戻ったのだ。

 「私」はまた青年への「最中」に帰ってきたのだ。「私」は空にたった一本の糸で繋がれただよう浜辺の凧のように宙ぶらりんだが、それはただただきれいで、心底「いいなあ!」と思ってしまうものだ。

 彼岸と此岸のあわいを実際にただようことは、その凧の見た目の美しさとは裏腹にむつかしいだろう。だろう、と言ってしまうのは、「私」は死にもの狂いで彼岸から此岸へと戻ってくる日々を語らないからだ。彼岸の縁で、あるいは彼岸において見たこと聞いたことをおもしろおかしく語ることが、「私」にとっての美しさの体現なのだ。

 

 原田宗典はむかし、お金のなかった学生時代勉強そっちのけでバイトに精を出していたが、だからこそ人並み以上に遊んだと、どこかで読んだが、多分、そのときの振舞いは、この小説のラストで描かれる浜辺の空に浮かぶ凧の美しさと同じものだ。本当は危うい宙ぶらりんなのに、それを人目には美しく見せる、それが原田宗典のプライドなのだ。精いっぱいの、死に物狂いの姿は見せない。

 

 原田宗典をフィルターにして彼岸をおもしろおかしく、そして切なく眺めた直後、具体的には一週間後、私の母がとつぜん死んだ。母が亡くなって2ヶ月後、私はまた彼岸と此岸のあわいについて思い馳せる作品に出くわした。黒沢清『岸辺の旅』だ。

 

 

 『岸辺の旅』では、死んだ夫と残された妻が彼岸と此岸のあわいを旅する。行方不明となり3年ぶりに姿を現した夫はあっけらかんと「おれ、死んだよ」と告げ、妻はそのことにさほど驚きもせず、再会を喜ぶ。2人は共に、行方をくらました3年の間、夫が世話になった人びとに会いに行く。

 旅先で出会う人々もまた、生きているのか死んでいるのか、妻には見分けがつかない。彼岸に行った(という自己認識をもつ)者だけが、生者と死者の区別をつけられるのだ。

 旅の途中、此岸の人間である妻は「ずっとこんなところで暮らせたらいいのになあ」と言う。夫が生きていた頃よりも楽しい日々、この日々が続いてほしいと思うけれど、もちろんそれが叶わぬ願いであることには、感づいている。

 夫は、寂れた岸辺へと妻を連れていき、忽然と消える。夫を亡くした妻は、その岸辺で夫の無事を願って書いた100枚の祈願書を燃やし岸辺を去る。彼女の表情には、悲しみよりも決意のようなものが浮かんでいた。

 さて、彼岸と此岸のあわいを行く旅は終わった、のだろうか。

 「Invisible Touch 『岸辺の旅』論」で阿部和重は、『岸辺の旅』を色彩劇であると指摘した上で、それが目指したのは無と有の対立を乗り越えるドラマだったと喝破する。白に黒で描かれた祈願書は橙色の炎に包まれ焦げ褐色に染まっていく、それはさながら「生と死の重なり合った中間性の形象化として橙色のコートを身にまとって」やってきた夫を思い出させる。実際、夫は岸辺へと赴く前に、自ら誘ってセックスする。妻は夫と、あるいは夫も妻と重なりあってこれからも生きていくのだろう。

 一度たりとも同じ線を描くことのない波、それのよせる岸辺を行く旅は続くのだ。

 

 

 生と死、正気と狂気、固定的な境界線はない。波はたえず異なる線を描く。  死や狂気は対岸にあって私たちの日常と遠く隔たっているわけではなく、すぐそばにある。死者も狂人も私たちのすぐそばに既にいて、すぐそばに「生まれる」。次の瞬間には私たち自身が死んだり狂ったりするのかもしれない。私たちは、地上と一本の糸でつながる浜辺の上空をただよう凧であり、岸辺に打ちよせる波のすぐそばを歩いていく人である。

 私はいままで、波のそばを歩けるのは、「メメント・モリ」の「私」のような人だけだと思っていた。そして、自分自身は波から遠く離れた場所にいると信じて疑わなかった。しかし、実際には誰もが「岸辺の旅」をしているのである。

 

 4年前に東北で、彼岸と此岸のあわいを溶かした大波が私たちに教えたのは、そういうことだったのかもしれない。

 そして4年間あの波のこと、あの波を起こした揺れのことを忘れなかった人たちが今年、これらの作品をつくりあげたのだろう。

 

 先日、パリでISによる同時多発テロが起こり129人が死んだ。フランスは戦争状態に入った。やはり彼岸と此岸に境界は限りなくあわい。

【連作批評】「障害者と旅する」第一回 textたくにゃん

はじめに

 「障害者」という言葉がある。その対義語として、「健常者」という言葉がある。この二つの言葉が存在しない世界を探す旅に出よう。健常者の私は、障害者のあなたとともに。

 

写真における作為/作意(1)

 私が前号(vol.4)に寄稿した長文批評で触れ/書かなかったことが一つあります。それは、自閉症のカメラマンが撮る写真そのものに対する批評、という要素です。そこで、この連載を、「自閉症(+知的障害)者が撮る写真」に対する批評を試みることから始めたいと思います。(その批評こそ、まさしく「障害者」に対する色眼鏡を外すことの必要性を、示唆するでしょう。)前号を読まれていない方のために説明すると、そのカメラマンとは、ドキュメンタリー映画『僕は写真で世界とつながる~米田裕二22歳~』(マザーバード、二〇一四年)における主人公、米田裕二(以下、裕二君)です。

www.youtube.com

彼は中学生の頃から写真を撮り始め、二〇一〇年には「京都とっておきの芸術祭 京都府知事賞」を受賞した経験も持つ、京都府八幡市在住のアマチュアカメラマンです。映画は、そんな彼が初めて母親のもとを離れ、飛行機に乗って行った沖縄での二泊三日の様子を中心に構成されています。映画の中で、彼の写真は主にスライドショーとして随所で効果的に挿入されていました。映っているのは、空や海、市場で目についた食材や道の駅で出会った人、水族館の生き物たちなど、特殊なものではないといえます。一見して、写真になったからといって目新しく見えるといったものでもありません。そもそも、使用しているカメラでさえ、私たちの多くが手に入れることのできる市販のデジカメです。しかし、彼の写真は賞を獲るくらい一定の評価を受けています。つい先日(11月8日)も、朝日新聞に本作に関する記事が掲載されていたくらいです。

digital.asahi.com

松下氏のコメントで注目したい箇所があります。

写真を眺め、ふしぎな魅力の秘密はなにかと考えた。

 ファインダーとにらめっこせず、被写体をみたとたんに撮る。だから瞬間を切りとれるのか。いや、それだけじゃないな。被写体は、人ばかりではなくカバもゴンドウクジラも、祐二さんにほほえんでいるようにみえるなあ。

 その理由はわからないけれど、祐二さんは発達障害を補うため、ほかの能力を伸ばしたってことか。人それぞれの違いは才能の源なんだ――。

確かに、彼の写真家としての特徴は「ファインダーとにらめっこ」しないという、写真家あるまじき手法にあります。それに加えて松下氏は、「発達障害を補うため、ほかの才能を伸ばした」と解釈しています。これには疑問が残ります。裕二君はその「能力」とやらを、何故「写真」という芸術分野で「伸ばした」のでしょうか。例えば、彼がカメラの代わりにギターを手にしていたら、パンクロックの「才能」を「伸ばした」可能性もあるのではないのでしょうか?松下氏は惜しいことをしています。「ファインダーとにらめっこ」しないで撮られた写真がどのようなものなのか、もっと突き詰めて考えることが出来たはずだからです。この点からも、障害者に対して私たちがかけてしまう色眼鏡を外すことが肝心だと分かります。その上で、彼が自閉症者であるという要素を踏まえて、彼の写真に視線を投げかけてみるということに尽きます。そこで、一人の写真家の存在が思い当たります。鈴木理策(52歳)です。

 今年(二〇一五年)の七月から九月にかけて、初台にある東京オペラシティアートギャラリーにて、鈴木理策写真展「意識の流れ」が開催されました。展示の内容ですが、「海と山のあいだ/Between the Sea and the Mountain ― Kumano」と題されたGallery 1には、二十八枚の写真と一点のヴィデオ作品、「水鏡/Water Mirror|White|SAKURA|Erude」と題されたGallery 2 には七十九枚の写真と、こちらも一点のヴィデオ作品によって構成されていました。彼はこれまでに、和歌山県熊野の写真を多く撮ってきました(九八年に出した第一写真集のタイトルは『KUMANO』です)。本展で熊野の写真だと断定できるのは、Gallery 1 に展示されているゴツゴツした岩だらけの海岸(「海と山のあいだ」ということでしょう)を写した写真のみですが、Gallery 2 の雪景色や桜を写した作品のどれかも(もしくは全てが)熊野で撮られたものかもしれません。いずれにせよ、重要なことは彼の写真に写る風景が熊野のものかどうかよりも、彼がどのように写真を撮っているのかなのです。言い換えれば、どのような思考に基づき、どのような技術でもって彼は被写体と対峙しているのか。これらの問いについて、まず手がかりとなるのは、鈴木理策本人の言葉です。文芸誌『新潮』の九月号に掲載された「見ることとうつすこと」と題された文章の中で、彼は次のように述べています。

ピントは、その場所で最初に目がいった部分に合わせます。シャッターも狙わずに押す工夫をしています

何ともプロの写真家らしからぬ方法論です。何か裏があるに違いありません。彼はそうした工夫をすることによって、「画面に作為をこめない」ようにしたいのだと言います。この、写真に“作為”をこめないという“作意”の発端は、約五年前に遡ると思われます。

 二〇一〇年十二月から二〇一一年一月にかけて、恵比寿にあるNADiff Galleryにて、写真展「写真分離派宣言」が開催されました。参加しているのは、三人の写真家(鷹野隆大鈴木理策・松江泰治)と二人の批評家(倉石信乃・清水穣)です(全員が一九六三年生まれです)。本展のタイトルにも掲げられている「写真分離派宣言」とは、一体どのような宣言だったのでしょうか。その起草文の中で、呼びかけ人である鷹野隆大は次のように述べています。

近年はデジタル技術の進化により、より巧妙に“写真の棘”とも言うべき個別具体性を削り取ることが可能になっている。しかし問われているのは「現実を抽象化することなく、いかに表現するか」ではなかろうか。情報の劣化の少ないデジタル写真はその意図に相応しい。

ここでは、デジタル技術の否定と肯定がなされています。前者は、多くのデジタル写真には加工や合成が蔓延り、元来写真がもっていたリアリティが喪われつつあるという現状に対する警鐘です。後者は、フィルムや印画紙ではないデジタル写真にこそ、リアリティを創出する可能性があるとする展望です。前者のような指摘は、写真という芸術分野の内外に存在することは自明です。しかし、そこから後者のような可能性を見出した写真家・批評家は彼らだけでした。ここに、写真=既存の写真哲学からの「分離」があったのです。この「写真分離派宣言」を踏まえて、鈴木理策の方法論に翻ってみます。彼の、「画面に作為をこめない」工夫は、シャッターを切るまでの手続きが簡易化されたというデジタル技術の一側面に対する肯定を体現しているといえます。そして、そこにはデジタル技術の加工や合成といった一側面には依らないことで、「棘」=生々しさが残る写真を撮るのだ、という作意が潜んでいるのです。そう考えると、彼が「意識の流れ」の中で写真とともに展示していたパネルにあった、次の言葉の真意が汲み取れます。

人は写されたイメージに意味を見出そうとする。だが意味が生まれる以前の状態で見ることを示したい。

 

 さて、ようやく私たちは、裕二君の写真の「ふしぎな魅力の秘密」に迫るための言葉を獲得しました。鈴木理策が示したように、「写されたイメージに」「意味が生まれる以前の状態で」(つまり、「障害者」に対して、「障害者」なのだという色眼鏡をかける以前の状態で)裕二君の写真に目を向けてみましょう。松下氏のコメントにあったように、裕二君はほとんどファインダーを見ないで写真を撮ってしまいます。「今だ」「撮りたい」と思った/感じたその刹那をそのまま切り取ろうとする撮影スタイルは、デジカメだからこそ為し得る技です。それは、鈴木理策の目指している極地の方法論といえます。とすれば、裕二君の写真には「棘」=生々しさが強烈に残っているはずです。その個別具体性を私は、障害者の行動範囲の限界であると考えます。彼の写真群を概観すると、空や花、動物や電車など日常的な写真ばかりです。率直に言って、狭い。彼にとっての世界はそれが全てであり、故に、一枚一枚に凝縮された美しさが人の胸を打つ。しかし、それらが示す彼の行動範囲の限界=「棘」から、私たちは目を逸らしてはいけないと思うのです。*1確かに、彼の写真は、知的障害自閉傾向のある青年が撮ったとは思えないほどに見事です。その美しい写真からは、元気を分けてもらえる気がしてきます。しかしそれは、障害があってもこんな写真を撮れるのだ、という驚きからくる同情心であってはなりません。彼が作為のみならず作意すらこめずに撮った写真だからこそ残る「棘」の存在に気づいて初めて、私たちは障害者の現実とつながることができるのだと思います。*2

 

 

*1:そう考えると、彼が初めて飛行機に乗って沖縄へ行ったという出来事は、「障害者/健常者という言葉のない世界」を考える上で示唆的です。(自閉症者であっても、世界は拡がる。そのことを教えてくれたドキュメンタリー映画、『ぼくは写真で世界とつながる』は画期的な芸術作品といえるでしょう。)

*2:裕二君の写真を考える上で参考になる写真家は、何も鈴木理策ただ一人だけではない。例えば、中平卓馬は2003年に、『カメラになった男』というタイトルでドキュメンタリー映画にも撮られている。この作品は、来年の一月に上映会が予定されている。それを鑑賞したあとに、「写真における作為/作意(2)」を書きたいと思う。

【宣言】『スピラレ スキップト』刊行に寄せて

賢明な読者の皆様方におかれましてはお察しのことと存じますが、今回の文フリで刊行する予定だった、

『スピラレ vol.5』の埋め合わせが、このブログ、『スピラレ スキップト』となります。

我々「スピラレ」一同は、これまでの二年間、半年に一回のペースで新刊を発行してきましたが、

これからはその歩調が変わるということです。

次回の文フリ(5月1日)では、『スピラレ vol.5』を皆様の元へお届けする所存です。

それまでご辛抱願いたく、WEB上ではありますが、最新の批評文を書き下ろしました。

スマホから気軽に読める『スピラレ』も悪くないでしょう?

・・・どうか末永く見守っていて下さい。

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