『スピラレ スキップト』

一回飛ばしの批評です。 2013年、渋谷にある映画美学校にて開講された「批評家養成ギブス第二期(主宰:佐々木敦)」の修了生有志による、批評同人誌『スピラレ』のWEBサービスw http://spirale.hatenablog.com/ twitter@spira_le

【連作批評】「障害者と旅する」第一回 textたくにゃん

はじめに

 「障害者」という言葉がある。その対義語として、「健常者」という言葉がある。この二つの言葉が存在しない世界を探す旅に出よう。健常者の私は、障害者のあなたとともに。

 

写真における作為/作意(1)

 私が前号(vol.4)に寄稿した長文批評で触れ/書かなかったことが一つあります。それは、自閉症のカメラマンが撮る写真そのものに対する批評、という要素です。そこで、この連載を、「自閉症(+知的障害)者が撮る写真」に対する批評を試みることから始めたいと思います。(その批評こそ、まさしく「障害者」に対する色眼鏡を外すことの必要性を、示唆するでしょう。)前号を読まれていない方のために説明すると、そのカメラマンとは、ドキュメンタリー映画『僕は写真で世界とつながる~米田裕二22歳~』(マザーバード、二〇一四年)における主人公、米田裕二(以下、裕二君)です。

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彼は中学生の頃から写真を撮り始め、二〇一〇年には「京都とっておきの芸術祭 京都府知事賞」を受賞した経験も持つ、京都府八幡市在住のアマチュアカメラマンです。映画は、そんな彼が初めて母親のもとを離れ、飛行機に乗って行った沖縄での二泊三日の様子を中心に構成されています。映画の中で、彼の写真は主にスライドショーとして随所で効果的に挿入されていました。映っているのは、空や海、市場で目についた食材や道の駅で出会った人、水族館の生き物たちなど、特殊なものではないといえます。一見して、写真になったからといって目新しく見えるといったものでもありません。そもそも、使用しているカメラでさえ、私たちの多くが手に入れることのできる市販のデジカメです。しかし、彼の写真は賞を獲るくらい一定の評価を受けています。つい先日(11月8日)も、朝日新聞に本作に関する記事が掲載されていたくらいです。

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松下氏のコメントで注目したい箇所があります。

写真を眺め、ふしぎな魅力の秘密はなにかと考えた。

 ファインダーとにらめっこせず、被写体をみたとたんに撮る。だから瞬間を切りとれるのか。いや、それだけじゃないな。被写体は、人ばかりではなくカバもゴンドウクジラも、祐二さんにほほえんでいるようにみえるなあ。

 その理由はわからないけれど、祐二さんは発達障害を補うため、ほかの能力を伸ばしたってことか。人それぞれの違いは才能の源なんだ――。

確かに、彼の写真家としての特徴は「ファインダーとにらめっこ」しないという、写真家あるまじき手法にあります。それに加えて松下氏は、「発達障害を補うため、ほかの才能を伸ばした」と解釈しています。これには疑問が残ります。裕二君はその「能力」とやらを、何故「写真」という芸術分野で「伸ばした」のでしょうか。例えば、彼がカメラの代わりにギターを手にしていたら、パンクロックの「才能」を「伸ばした」可能性もあるのではないのでしょうか?松下氏は惜しいことをしています。「ファインダーとにらめっこ」しないで撮られた写真がどのようなものなのか、もっと突き詰めて考えることが出来たはずだからです。この点からも、障害者に対して私たちがかけてしまう色眼鏡を外すことが肝心だと分かります。その上で、彼が自閉症者であるという要素を踏まえて、彼の写真に視線を投げかけてみるということに尽きます。そこで、一人の写真家の存在が思い当たります。鈴木理策(52歳)です。

 今年(二〇一五年)の七月から九月にかけて、初台にある東京オペラシティアートギャラリーにて、鈴木理策写真展「意識の流れ」が開催されました。展示の内容ですが、「海と山のあいだ/Between the Sea and the Mountain ― Kumano」と題されたGallery 1には、二十八枚の写真と一点のヴィデオ作品、「水鏡/Water Mirror|White|SAKURA|Erude」と題されたGallery 2 には七十九枚の写真と、こちらも一点のヴィデオ作品によって構成されていました。彼はこれまでに、和歌山県熊野の写真を多く撮ってきました(九八年に出した第一写真集のタイトルは『KUMANO』です)。本展で熊野の写真だと断定できるのは、Gallery 1 に展示されているゴツゴツした岩だらけの海岸(「海と山のあいだ」ということでしょう)を写した写真のみですが、Gallery 2 の雪景色や桜を写した作品のどれかも(もしくは全てが)熊野で撮られたものかもしれません。いずれにせよ、重要なことは彼の写真に写る風景が熊野のものかどうかよりも、彼がどのように写真を撮っているのかなのです。言い換えれば、どのような思考に基づき、どのような技術でもって彼は被写体と対峙しているのか。これらの問いについて、まず手がかりとなるのは、鈴木理策本人の言葉です。文芸誌『新潮』の九月号に掲載された「見ることとうつすこと」と題された文章の中で、彼は次のように述べています。

ピントは、その場所で最初に目がいった部分に合わせます。シャッターも狙わずに押す工夫をしています

何ともプロの写真家らしからぬ方法論です。何か裏があるに違いありません。彼はそうした工夫をすることによって、「画面に作為をこめない」ようにしたいのだと言います。この、写真に“作為”をこめないという“作意”の発端は、約五年前に遡ると思われます。

 二〇一〇年十二月から二〇一一年一月にかけて、恵比寿にあるNADiff Galleryにて、写真展「写真分離派宣言」が開催されました。参加しているのは、三人の写真家(鷹野隆大鈴木理策・松江泰治)と二人の批評家(倉石信乃・清水穣)です(全員が一九六三年生まれです)。本展のタイトルにも掲げられている「写真分離派宣言」とは、一体どのような宣言だったのでしょうか。その起草文の中で、呼びかけ人である鷹野隆大は次のように述べています。

近年はデジタル技術の進化により、より巧妙に“写真の棘”とも言うべき個別具体性を削り取ることが可能になっている。しかし問われているのは「現実を抽象化することなく、いかに表現するか」ではなかろうか。情報の劣化の少ないデジタル写真はその意図に相応しい。

ここでは、デジタル技術の否定と肯定がなされています。前者は、多くのデジタル写真には加工や合成が蔓延り、元来写真がもっていたリアリティが喪われつつあるという現状に対する警鐘です。後者は、フィルムや印画紙ではないデジタル写真にこそ、リアリティを創出する可能性があるとする展望です。前者のような指摘は、写真という芸術分野の内外に存在することは自明です。しかし、そこから後者のような可能性を見出した写真家・批評家は彼らだけでした。ここに、写真=既存の写真哲学からの「分離」があったのです。この「写真分離派宣言」を踏まえて、鈴木理策の方法論に翻ってみます。彼の、「画面に作為をこめない」工夫は、シャッターを切るまでの手続きが簡易化されたというデジタル技術の一側面に対する肯定を体現しているといえます。そして、そこにはデジタル技術の加工や合成といった一側面には依らないことで、「棘」=生々しさが残る写真を撮るのだ、という作意が潜んでいるのです。そう考えると、彼が「意識の流れ」の中で写真とともに展示していたパネルにあった、次の言葉の真意が汲み取れます。

人は写されたイメージに意味を見出そうとする。だが意味が生まれる以前の状態で見ることを示したい。

 

 さて、ようやく私たちは、裕二君の写真の「ふしぎな魅力の秘密」に迫るための言葉を獲得しました。鈴木理策が示したように、「写されたイメージに」「意味が生まれる以前の状態で」(つまり、「障害者」に対して、「障害者」なのだという色眼鏡をかける以前の状態で)裕二君の写真に目を向けてみましょう。松下氏のコメントにあったように、裕二君はほとんどファインダーを見ないで写真を撮ってしまいます。「今だ」「撮りたい」と思った/感じたその刹那をそのまま切り取ろうとする撮影スタイルは、デジカメだからこそ為し得る技です。それは、鈴木理策の目指している極地の方法論といえます。とすれば、裕二君の写真には「棘」=生々しさが強烈に残っているはずです。その個別具体性を私は、障害者の行動範囲の限界であると考えます。彼の写真群を概観すると、空や花、動物や電車など日常的な写真ばかりです。率直に言って、狭い。彼にとっての世界はそれが全てであり、故に、一枚一枚に凝縮された美しさが人の胸を打つ。しかし、それらが示す彼の行動範囲の限界=「棘」から、私たちは目を逸らしてはいけないと思うのです。*1確かに、彼の写真は、知的障害自閉傾向のある青年が撮ったとは思えないほどに見事です。その美しい写真からは、元気を分けてもらえる気がしてきます。しかしそれは、障害があってもこんな写真を撮れるのだ、という驚きからくる同情心であってはなりません。彼が作為のみならず作意すらこめずに撮った写真だからこそ残る「棘」の存在に気づいて初めて、私たちは障害者の現実とつながることができるのだと思います。*2

 

 

*1:そう考えると、彼が初めて飛行機に乗って沖縄へ行ったという出来事は、「障害者/健常者という言葉のない世界」を考える上で示唆的です。(自閉症者であっても、世界は拡がる。そのことを教えてくれたドキュメンタリー映画、『ぼくは写真で世界とつながる』は画期的な芸術作品といえるでしょう。)

*2:裕二君の写真を考える上で参考になる写真家は、何も鈴木理策ただ一人だけではない。例えば、中平卓馬は2003年に、『カメラになった男』というタイトルでドキュメンタリー映画にも撮られている。この作品は、来年の一月に上映会が予定されている。それを鑑賞したあとに、「写真における作為/作意(2)」を書きたいと思う。