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『スピラレ スキップト』

一回飛ばしの批評です。 2013年、渋谷にある映画美学校にて開講された「批評家養成ギブス第二期(主宰:佐々木敦)」の修了生有志による、批評同人誌『スピラレ』のWEBサービスw http://spirale.hatenablog.com/ twitter@spira_le

【長文批評】路傍の猫をめぐって――想田和弘 text村松泰聖

1.国内のドキュメンタリー

 

 日本におけるドキュメンタリー映画の隆盛は目覚ましい。キネマ旬報の年間ベストテンには久しく文化映画部門が設けられ、故・小川紳介が立ち上げた「山形国際ドキュメンタリー映画際」は1989年の第一回から現在まで隔年の開催が続けられている。ドキュメンタリー映画はほとんどの場合に役者や脚本が不要であり、最低限、カメラと被写体さえあれば作品の成立は可能であると言っていい。とりわけ2000年代以降はデジタル撮影の普及によって制作費が安価に抑えられるようになったこともあり、かつてないほどの劇場用作品が公開されている。

 日本のドキュメンタリーをこれほどの水準に押し上げた立役者たちの名は枚挙に暇がないが、あらためて彼らの作品を眺望してみるとき、不意にこの国の土壌を流れる固有の主脈が浮かび上がってくる。要諦を言ってしまえば、それは撮影する〈私〉=主体の問題にほかならない。多種多様な彼らの方法論は、いずれもカメラの自意識をめぐって展開されているのである。

 たとえば原一男。『極私的エロス』(1974年)で出産する自身の元恋人に図々しくもカメラを向けた彼は、続く『ゆきゆきて、神軍』(1987年)でアナーキスト奥崎謙三が振るう暴力を「加担の論理」(そもそも原一男がカメラを回さなければ、あのような事件は起きなかったのではないか?)によって過激に描いて見せた。原はカメラが被写体に及ぼす影響に極めて自覚的だったが、自覚的であるからこそ、その影響関係を逆手に取り、日常を異化するための武器として使用したのである。

 原と同様、カメラと被写体との関係を重要視した作家に小川紳介がいる。周知のように、小川は『日本解放戦線 三里塚の夏』(1968年)に始まる一連の作品で三里塚の農民に密着した。その密着は、しかし凡俗な意味の密着ではなく、むしろ共生である。農民とともに寝起きし、農作業に従事(その様子が作中で描かれることはないが)するなかで、徹底して状況の中心にカメラを置いたのである。全部で七本が制作された「三里塚」シリーズで最も土着的な印象を与える『三里塚 辺田部落』(1973年)の長回しは、農民生活の内的な時間をそのまま切り取ることに成功した好例であると言えよう[i]

 態度の違いこそあれ、原一男小川紳介の両者にはカメラを持つ者としての自意識が芽生えている。それはドキュメンタリーを劇映画から切り離す一定の尺度ともなろうが、しかし考えてみれば、日本に固有の問題であるとはいえないだろうか。たとえばマイケル・ムーアはドキュメンタリーによる絶対的な〈正義〉を振りかざし、しばしば二元論的と揶揄されるような視点からアメリカ社会の悪を告発している。それはきわめて攻撃的な姿勢であるが、原一男のように内省した方法論はみられない。あまりにもカメラの介入に無自覚なムーアの姿勢は、後述するフレデリック・ワイズマンにも共通するものである。いや、むしろドキュメンタリーの世界において、自身のカメラに無自覚であることが本来的な姿勢なのである。言ってみれば、日本のドキュメンタリー作家たちの自意識は総じて過剰であるのだ。撮ることそれ自体のあり方をめぐって彼らのドキュメンタリー論は展開され、その方法論が作品自体に露出しているのである。

 

 おそらくその過剰な自意識を突き詰めていった先に、森達也というドキュメンタリー作家がいたのだろう。彼の代表作『A』(1997年)は麻原彰晃逮捕後のオウム真理教を描いた作品である。「日本人のメンタリティ」をテーマに掲げ、教団内部でカメラを回していた森は、あるとき公安によるオウム信者不当逮捕(いわゆる転び公妨)の場面に遭遇する。オウム側は逮捕された信者を救うため、森に対してその瞬間の映像を証拠として裁判に提出することを求めた。しかし彼は逡巡する。むろんオウムを絶対的な悪とみなす社会通念には反対だが、しかしオウムに協力してしまうことは、業界人としてメディアの中立性を損なう禁忌ではあるまいか?

考え抜いた末に森が出した結論は、オウム側に協力し、証拠フィルムを裁判所に提出することだった。この事件を機に森は悟ることなる。カメラはけっして中立ではない。何であれ映像を撮るということは、撮影主体の意図を不可避に反映してしまうことなのだ。ゆえにドキュメンタリーに絶対的な真理や客観的事実、政治的中立性といったものはありえない。「つくづく思う。ドキュメンタリーは徹底して一人称なのだ」[ii]と。

 こうして『A』とその続編『A2』(2001年)で国内外から高い評価を受けることになった森達也は、その後テレビドキュメンタリーの世界でやはりタブーに挑む作品を制作した。撮ることの虚構性や暴力性をめぐってたえず煩悶し、その懊悩自体を主題化する森の方法論は、ゼロ年代の国内ドキュメンタリーに大きな影響を与えることになった。監督自身の置かれた状況を描き出す極私的な映画、「セルフ・ドキュメンタリー」が増加したのである。[iii]

このようにセルフ・ドキュメンタリーが乱立している状況に痛烈な批判を加えたのは、『阿賀に生きる』で知られる佐藤真だった。佐藤の指摘によれば、かつて集団制作を前提としていたドキュメンタリーは、時代の変遷にともない個人の場へとシフトしていった。とりわけ90年代以降、内的な不安を抱える若者たちは〈自分探し〉としての映像制作を行なうようになる。しかし、自分自身や自分の家族、あるいは民族を対象とする彼らの方法論は決定的に他者性を欠いているのではないだろうか、と佐藤は難色を示したのだ。もちろん先述した『A』のように、個人的な懊悩が社会問題に直結している場合もあるだろう。それでも佐藤は「台湾や中国の若い映像作家の作品が、徴兵制や国家の問題に正面からぶつかっているのに比べると、戦うべき相手を見出しかねている日本の若者たちの脆弱さには目を被いたくなるところもある」と指弾したのである。ちなみに、こうした佐藤真による批判は、『A』の撮影にも携わったプロデューサーの安岡卓治とのあいだに歴史的な論争を招くことになった。[iv]

 以上、ゼロ年代までのドキュメンタリーを俯瞰した。もちろん、それは過去形で語られなければならない。2007年には佐藤真が死去した。一方の森達也は活動の場を映像から文筆へと移し、当初は『A2』の続編として撮影が進められていた『A3』も結局は書籍の形で発表された。佐藤と森、二人の監督が現場から退いたとき、時代は2010年代を、そして震災〈以後〉を迎えることになったのだ。

 

2.観察映画の時代

 

森達也が『A2』以来十年ぶりにメガホンをとった劇場用ドキュメンタリー『311』(2011年)は、ひとつの時代が終わったことを告げる晩鐘であった。地震後わずか15日で被災地に向かった森達也ほか撮影クルーだったが、予想以上の被害に身動きがとれなくなる。何の計画も装備もない彼らは原子力発電所に立ち入ることもできず、遺体にカメラを向ければたちまち被災者に叱責される。仕方なしに彼らは動揺する自分たちの姿をカメラに写す。やはりここでも森達也は撮ることに対する煩悶を主題にしようとしている。プロの作家であっても立ち入ることのできない状況を前に、森は〈撮ること〉の失敗それ自体を映画にしてしまったのだ。作品としての評価はさておき、それは彼の方法論が限界を迎えたことを露呈してしまったのである。

 たとえば萩野亮は、『311』の失敗と森達也の凋落を次のように推断している。

 

2011年に『311』を安岡卓治らと共同で発表した森達也は、この作品でも「作り手のためらいと煩悶」を主題化し、両極の賛否をまねいた。森が「ドキュメンタリーの原罪」と呼ぶ「撮ることの加害性」は、かつては対象となるテーマ(タブー)ときわどく釣り合っていた。森達也はこの映画では「向こう側」へ渡ることにいわば「失敗」し、その失敗を作品化しようとした。それはこういってよければ「時代錯誤」なふるまいではなかったか。自己批評を方法化した森達也「時代」とは、ブッシュやムーア、小泉純一郎らとメディアの結託による善悪二元論の「わかりやすさ」へのカウンターとして時機をえたものであり、かれらが退場したいま、その自己批評はむしろ空転した「自家撞着」に陥っているといわなければならない。[v]

 

 震災以後、もはや「作り手のためらいと煩悶」は通用しない。監督の極私性を主題とする「自己批評」的なゼロ年代の潮流は、『311』によって確実に変わったのである。だとすれば現在、すなわちテン年代のドキュメンタリーはどのような傾向を見せているのだろうか。萩野も指摘していることであるが[vi]、その中心は明らかに「観察映画」へ移行したと言えよう。

 

 「観察映画」とは、想田和弘の提唱するドキュメンタリー制作の方法論である。それは「簡単に言えば、撮影前に台本を作らず、目の前の現実を撮影と編集を通じてつぶさに観察し、その過程で得られた発見に基づいて映画を作る」ものであると説明されている[vii]。その実践として、想田は川崎市市議会補欠選挙に出馬した落下傘候補の奮闘を描いた『選挙』(2007年)を発表し、国内外で高い評価を受けることになった。さらに、「観察映画第2弾」と銘打った『精神』(2008年)、続く「第3弾」の『PEACE』(2010年)と、現在にいたるまで想田は一貫したスタイルで作品を制作し続けている。

台本を用意せずに撮影を進める手法は、彼がテレビドキュメンタリーを制作していたときに感じた違和から生まれたものである。一切の先入見を排し、前もってテーマを掲げることもなく、制作費はすべて自己資金で賄うこと――徹底したスタイルの構築により、想田は「分かりやすさ至上主義」と「台本至上主義」に塗れたテレビドキュメンタリーと決別したのである。

さらに「観察映画」を際立たせる特徴として「三ない主義」が挙げられる。すなわち、ナレーション・テロップ・音楽の排除である。想田によると、「それらの装置は、(使い方にももちろんよるが)観客による能動的な観察の邪魔をしかねない。また、映像に対する解釈の幅を狭め、一義的で平坦にしてしまう傾向がある」[viii]。すなわち「観察映画」の「観察」とは、撮影者による被写体の「観察」を意味すると同時に、観客による作品の「観察」も意味しているのである。すべての解釈は観る者に委ねられているのだ。

ところで、この「観察映画」は想田和弘の独創によるものではない。主観を排する彼の姿勢は、一般に「ダイレクト・シネマ」に由来するといわれている。ダイレクト・シネマとは、1960年代にアメリカで勃興したドキュメンタリー運動であり、ナレーションなどの力を極力借りずに、現実の映像と音だけを用いてすべてを直接に描こうとするものだった。ロバート・ドリュー監督による『大統領予備選挙』(1960年)をその端緒として、当時の社会情勢をニュースとは異なる角度から切り取ったドキュメンタリーが盛んに制作されたのである。東京大学を卒業後にニューヨークで映画製作を学んだ想田和弘は、自身も認めるように、明らかにこうした米国映画史の文脈を引き受けている。

そのダイレクト・シネマの延長線上に、想田が師と仰ぐひとりの偉大な映像作家がいる。フレデリック・ワイズマンである。彼は処女作の『チチカット・フォーリーズ』(1967年)以来、アメリカ社会を切り取った膨大な量の作品を発表し続け、そのいずれもがドキュメンタリーとして(いや、むしろドキュメンタリーとフィクションの境界など取り払った上で)比類なき域に達している。先述した台本を用いない撮影や「三ない主義」を徹底し、禁欲的スタイルを貫いてきたワイズマンのドキュメンタリーこそ、想田和弘および「観察映画」の源流であると言えるだろう。

 

 ――だが、ここでひとつの疑念が生じる。確かに想田和弘自身、ダイレクト・シネマやワイズマンの作品から多大な影響を受けたことを明言している。そして当然、その手法も一致している。しかし、本当にそれだけなのだろうか。もはや想田和弘という作家を日本の文脈に位置づけることは不可能なのだろうか? 多くの共通項を持ちながらも、「観察映画」から受ける印象はワイズマンのそれとどこか異なっている気がしてならないのだ。私たちはそれを主題の違いや国柄の違いとして片付けることができない。「観察映画」には、単なる「観察」に還元されないある種の「温かさ」が存在しているのである。

 そう考えてみるとき、私たちの脳裏にひとりの作家の名前が浮かび上がってくる(そういえば彼もまた、最高学府を卒業し西洋へ赴いたのだった)。ならばセルフ・ドキュメンタリーの隆盛と批判を、日本のドキュメンタリーに特有である〈主体〉の系譜を、もう一度歴史の文脈に位置づけてみることにしよう。しかし今度は映画史の系譜ではない。紛れもなく、それは文学史系譜である。

 

3.「猫」の肖像

 

 文筆活動を開始した当初、「余裕派」を標榜する夏目漱石が文壇から軽視されていたことは広く知られている。明治30年代後半の文壇で反自然主義の立場をとることは反文学の立場をとることに相等しい。にもかかわらず漱石の初期作品に一貫している写生文の姿勢は、「現代日本の開化」が引き起こす〈主体〉の相剋に懊悩する作家の出したひとつの解答であると同時に、いわばドキュメンタリストとしての漱石の一面を垣間見ることができるものでもある。ひとつ彼の言葉を引用してみよう。

 

写生文家の人事に対する態度は貴人が賎者を視るの態度ではない。賢者が愚者を見るの態度でもない。君子が小人を視るの態度でもない。男が女を視、女が男を視るの態度でもない。つまり大人が子供を視るの態度である。両親が児童に対するの態度である。世人がそう思うているまい。写生文家自身もそう思うているまい。しかし解剖すれば遂にここに帰着して仕舞う。〔…〕写生文家は泣かずして他の泣くを叙するものである。[ix]

 

 この中で漱石が追求する「写生文」は、日本文学が取り入れた独自のリアリズム、すなわち自然主義文学でもなければ、本来の西洋的なリアリズムでもない。それは両者の価値観に板挟みになった結果案出された「観察的」リアリズムにほかならない。「泣かずして他の泣くを叙する」ことは決して非人情の態度ではない。それはいわば「両親が児童に対するの態度である」と漱石は述べる。たとえば『吾輩は猫である』は登場人物の性格や構成、主題が欠如した作品であるが、それでもこの小説が当時の大衆人気を獲得し、現在にいたっているというのは、この「観察」の妙味にあるといってもいい。

 

 これまでに述べてきたドキュメンタリー作品の布置をあらためて整理しよう。そもそも近年におけるセルフ・ドキュメンタリーの隆盛と、それに対する佐藤真の否定的な態度(自身や家族の出自を描くセルフ・ドキュメンタリーが素材先行主義になりかねないという懸念)は、大正期の文壇で沸き起こった私小説論争の再掲にすぎない。そして同様の反復は、さらに時代を遡行して明治30年代、私小説の素地となった自然主義文学の誕生においても見出されるはずだ。周知のように日本の自然主義は西洋における自然主義の歪曲として、田山花袋『蒲団』に代表される〈告白〉の形式を生み出しているが、それは日本のドキュメンタリーに特有である極私的映画の〈告白〉性と重ね合わせることができるだろう。

 ならばその一方で、ワイズマンに代表されるダイレクト・シネマの手法を、西洋における本来の自然主義(ゾライズム)と重ねてみることも難しくない。主知主義的、あるいは一神教的なワイズマンのまなざしは、しかし想田和弘の「観察映画」とは似て非なるものである。なぜなら、ワイズマンはカメラと被写体とのあいだの影響関係をほとんど考慮していないからだ。舩橋淳によるインタビューのなかで、彼は次のように答えている。

 

〔…〕キャメラは現実を変えないとわたしが主張する理由が、われわれ人間のほとんどが、突然別人のように振る舞えるほど演技能力には長けていないということだ。もし、突然キャメラが現われ、自分が撮られたくないのであったら、嫌がるようすをしたり、歩き去ったり、「撮らないで」と言ったりするはずだ。ひるがえって、撮影されることに同意したひとは、自分がわかっている「適切」な行動をとっているはずなのだ。人びとが自分のおかれている状況に対して「適切だ」と思う行動を取るさまをキャメラで捉える、それがまさしくドキュメンタリー作家としてのわたしが求めているものだ。[x]

 

 たとえカメラが回っていたとしても、人間はそれぞれが振る舞うべき「適切」な行動をとるに違いない。したがって、被写体の状況にカメラが介入してしまうことはない。ワイズマンはそう述べている。少なくとも、それは最初に述べた原一男の「加担の論理」とは対蹠的な発想である。それどころか、おしなべて撮影〈主体〉と被写体との距離感に意識的であった日本のドキュメンタリストたちの思想とも、けっして相容れることがないだろう。

 だが想田和弘という〈主体〉は、ワイズマンのような透明な存在になりきれていない。その性質上、ワイズマンの作品にカメラ目線が入り込むことはありえないが、想田の「観察映画」には時折カメラを見つめる目線があらわれる。それを想田の手落ちとして捉えることも十分可能だろう。しかし、むしろその手落ちこそがカメラと被写体とのあいだの関係を担保しているのである。

 事実、想田は自身がワイズマンのような「透明人間」になりきれていないことを告白している。確かに当初は可能な限りカメラの存在を消そうとしていたが、『精神』の撮影時、被写体となる患者たちがどうしてもカメラに向かって話しかけてくることに困惑を覚えてしまったというのだ。ワイズマンならそういったシーンは編集でカットするに違いないが、しかし想田の場合はそれができなかった。こうして彼は身をもって知ることになる。「現実と作家が無関係でいることは、ありえない」のであり、「観察映画では必ず、作り手である僕自身も含めた観察になるわけである」と[xi]

 

そろそろ擱筆としよう。結論から言って、漱石の定義する写生文こそ「観察映画」の源流である。想田和弘はダイレクト・シネマやワイズマンのように〈主体〉=〈撮る私〉を透明化し、一神教的な人称を採用することを徹底できていない。と同時にセルフ・ドキュメンタリーの「露骨なる描写」、あるいは〈撮る私〉にカメラを向けた結果陥ってしまった森達也の「自家撞着」も巧妙に回避している。漱石が『文学論』の冒頭で掲げたあの「F+f」の公式をいささか強引に当てはめるならば、観察映画はダイレクト・シネマにおけるF=「焦点的印象又は観念」の偏重も、極私的映画におけるf=「情緒的要素」の偏重も避け、結果的にその両立「F+f」を可能にしているのである。

言ってみれば、想田和弘という〈主体〉=「吾輩」は、自己を無名の「猫」に仮託することによって存続しているのだ。「観察映画」とは、日本のドキュメンタリーがその〈主体〉をめぐって思案し続けてきた方法論の、極めて日本的な到達点にほかならない。『PEACE』のなかで繰り返し描かれた猫とは、かつて夏目漱石が描いてみせた、新しい時代を告げる「猫」のことだったのである。

 

[i] 小川紳介を語る以上、彼と比肩するドキュメンタリー作家、土本典昭の名を挙げないわけにはいかない。カメラマンとして駆け出しの時分、ファインダーを向けた水俣病患者から辛辣な言葉を浴びせられたという土本は、臍を固めて水俣の地に移り住み、患者たちに寄り添う作品づくりをおこなったのである。その結果として生まれた『水俣 - 患者さんとその世界』(1971年)や『不知火海』(1975年)といった作品群がいかに傑出した作品であるのかは贅言を要しない。小川紳介と同様に、土本もきわめて土着的な方法論を備えた作家だったと言えるだろう。

[ii] 森達也ドキュメンタリーは嘘をつく草思社、2005年、74頁。

[iii] すべてを列挙することはできないが、代表例として松江哲明『あんにょんキムチ』(2000年)や小野さやか『アヒルの子』(2005年)などを参照されたい。なお、ゼロ年代におけるセルフ・ドキュメンタリーの増加傾向に関しては、もちろん森達也の影響だけでなく、ハンディカムをはじめとするデジタル機器の普及も考慮する必要があるだろう。

[iv] 2002年から翌年にかけて「メールマガジンneoneo」上で展開されたこの論争は、現在、以下のサイトで参照することができる。http://newcinemajuku.net/report/150328.php

[v] 萩野亮「ドキュメンタリーは嘘をつく――森達也とその時代」、ドキュメンタリーカルチャーマガジン『neoneo』第3号、neoneo編集室、2013年、22-23頁。

[vi] 同書、23頁。

[vii] 想田和弘『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』講談社、2011年、50頁。

[viii] 同書、63頁。

[ix] 夏目漱石「写生文」、『漱石全集』第十一巻、新潮社、1966年、21頁。なお、表記は現代仮名遣い・新字体に改めている。

[x] 土本典昭鈴木一誌編『全貌フレデリック・ワイズマン岩波書店、2011年、27頁。

[xi] 想田前掲書、170頁。