『スピラレ スキップト』

一回飛ばしの批評です。 2013年、渋谷にある映画美学校にて開講された「批評家養成ギブス第二期(主宰:佐々木敦)」の修了生有志による、批評同人誌『スピラレ』のWEBサービスw http://spirale.hatenablog.com/ twitter@spira_le

【連作批評】「障害者と旅する」第二回 textたくにゃん

一流野球選手の身体の転回に観る全身まひ者(1)

 

  プレイボール

 

 連載第一回となる前回は、二〇一四年公開のドキュメンタリー映画に主人公として出演した、自閉症(+知的障害)のアマチュアカメラマンの青年・米田裕二(以下、裕二君)が撮る写真そのものを批評対象とし、裕二君の撮影スタイルを写真家・鈴木理策の方法論と比較し、鈴木も参加者の一人である『写真分離派宣言』(二〇一〇)における鷹野隆大の起草文などを介して、裕二君の写真に残る生々しさ=「棘」について考察したが、それはいわば、〈作者が「障害者」である芸術作品に対する批評〉であった。今回は、〈作者が「障害者」ではない芸術作品に対する批評〉を行う。しかも、その作品のテーマや設定、登場人物等には、一切「障害者」が関係していない。意図的なメタファーの一つも感じられなかった。このような前置きをするのには当然理由がある。何故ならその作品は、以上のような前提条件があるにも関わらず、「障害者」が表象される驚愕の瞬間を持ち、私たちの〈「障害者/健常者」という言葉が存在しない世界を探す旅〉において、立ち寄ることを避けられない重要な一角であると考えられるからだ。そんな一角に位置する作品の中には、「ホームベース」という名の一角が在る。五角形のホームベース。そう、そこは野球場だ。

 

  イチロー

 

 岡田利規が主宰する劇団、チェルフィッチュの最新作『God Bless Baseball』は、タイトルにも「Baseball」とあるように、まず「野球」をテーマにした演劇である。それは、四人の役者のうち三十歳位の女優二人が、私服にグローブという恰好で登場し、「野球って面白いんですかー?」、「サッカーはゴールに入れば良いっていうのが分かり易いけど、野球は、例えば「回」っていうのがわからなくて」といった風な、「現代口語」台詞を口にしていることからも分かるように、全く野球のルールや面白さを知らない観客でもすんなり受け入れられる導入の上手さもさることながら、一人の男優が演じる四十歳位の男の背景が、〈野球好きの父親の影響で子どもの頃やっていた野球だがいつからか逆に関心が無くなってしまった〉という、多くの支持者を獲得しうる普遍的な要素であるといった設定に留まらず、「野球とは人生のアレゴリー」だという「イチロー」の台詞によって、「野球とは何か」という哲学的命題にまで直截的に迫るシーンがあることからも間違いない。また、二〇〇六年に行われたワールドベースボールクラシック(WBC)という、野球の世界大会(第一回)において、日本は優勝したが、勝敗数的には韓国に負けていたというエピソードに端を発し、これまでに言及した三人の役どころがどうやら韓国人である(このことは話が進むに連れて明らかになる)ことからも分かるように、多言語性を帯びた演劇でもある。(そこには、韓国人の役を日本人役者が日本語で演じているというような、奇妙な現象もある。そして、この「人称」の問題は本論では割愛する。)この様式に、平田オリザ青年団)とソン・ギウン(第12言語演劇スタジオ)の共同脚本・共同演出作、『新・冒険王』(二〇一五)への応答として見る向きも多分にある。『新・冒険王』は、二〇〇二年に日韓共同で行われたサッカーワールドカップをモチーフに、準決勝の韓国対イタリア戦の時間帯にトルコ(イスタンブール)のゲストハウスに居合わせた日本人・韓国人達を描いた、平田作品の特徴である「同時多発会話」に富んだ「現代口語演劇」である。だが、それに深入りすることはまた別の機会にしたい。『God Bless Baseball』で肝心なことは『新・冒険王』とは違った「身体性」へのアプローチである。メジャーなスポーツを扱った両作品であるが、その方向性にはいわば、ライトのポールとレフトのポールへと伸びるライン(白線)のように、九十度程の開きがある。

 さて、残すもう一人の男優が演じるのは、「イチロー」という唯一具体的な役柄が設定が為されている人物なのだが、彼の役は紛れもなく本作のキーマンである。(現実の「イチロー」の、野球選手という枠組みを超えて日本を背負って立つカリスマ性についてここで論じることは割愛する。)「イチロー」は、「(現実の)イチロー」の打撃フォームや仕草などの物まねを「YouTube」に投稿している「ニッチロー」の、その動画を観て練習したという打撃フォームや仕草を披露する。それを見る三人は、特に似ている/いないについて明言するわけでもなく、「イチロー」を「(現実の)イチロー」と認識している。もうこの時点で、この芝居に現実的な設定があるわけでないことは自明となるが、この役どころの「イチロー」すら「(現実の)イチロー」でないこともまた明らかである。この二重の非現実的な設定故に、本作は数々の驚くべき展開をみせていくのだが、特筆すべきは、「〈身体の一部が自分でない〉エクササイズ」を行うシーンである。これには、

「僕くらいになると、バットも体の一部だからね」

といった「イチロー」の台詞の後にくる、実際に小道具としてのバットを持った「エクササイズ」がある。そこで彼は、バットを持っていない方の腕の動きを(それはくねくねと波線を描いたりする)、バットを持っている方の腕でも再現してみせる。それが成功しているかどうかは微妙だ。なんとなく、そこに演劇的な身体の表出があるように感じはする。だが、その曖昧さは次に来るエクササイズのためのエクササイズであったとすれば、腑に落ちる。バットを身体の一部とした(?)人間による次なるレクチャーは、身体の一部を自分ではなくしていくという、方向性としては真逆のベクトル持ったエクササイズである。まるで、ヒットを放ったバッターが、一塁ではなく三塁へ向かって駆け出していくような(どちらもホームベースには帰って来るのかもしれないが)。しかもそれは、序盤で野津あおいが「超現代挙動」としてやってみせている、右利きなのに右手にグローブを嵌める仕草と同様のさり気無さで行われる。このエクササイズのシーンに本作の核心、即ち、快音を響かす批評的クリーンヒットを放つための、バットの芯が在る。