『スピラレ スキップト』

一回飛ばしの批評です。 2013年、渋谷にある映画美学校にて開講された「批評家養成ギブス第二期(主宰:佐々木敦)」の修了生有志による、批評同人誌『スピラレ』のWEBサービスw http://spirale.hatenablog.com/ twitter@spira_le

【連作批評】「障害者と旅する」第四回 textたくにゃん

一流野球選手の身体の転回に観る全身まひ者(3)

 

  劇団「態変」旗揚げ公演前夜

 

 ある芝居小屋の客席にて。

 開演のベルを合図に客席の明かりがおちて真っ暗となり、しばらくすると役者の出を待つかのように舞台が明るく照らし出される。しかし、いっこうに役者のでてくる気配がしない。と突然、傍らの客が何か叫びだす。すると、あっちこっちから同じような声がしだし、何か大きなものを抱えて立ち上がる客たちが舞台へ向かい始める。はっとしてもういちど隣に目をやると、その人が障害者らしき人で、「うえに上げて、舞台に上げて」と絞り出すような声で呼びかけているのがようやく耳に入ってきた。

 あっ、そうかこの人を上げなくっちゃいけないのだ、やっとそれに気づいて、慌てて声の主を抱えて舞台まで上げにいく。そのようにして舞台へ挙げられた人たちが、舞台上のあっちこっちにごろごろ転がっている。と、転がりながら上の服を脱ぎだして、その下に着ている鮮やかな色のレオタード姿になるのが見えだす。ちょうど蝶の変態のように。

 ――私のやっている劇団「態変」の一九八七年の公演『水は天からちりぬるを』はこんなプロローグから始まった。

  

 引用したのは、金満里の自著『生きることの始まり』(1996年)の、「プロローグ・ミルク玉つぶし」の冒頭部である。何とも画期的な導入部を持つ演劇ではないか。役者たちは、何故レオタード姿になっていったのか。そして、この作品はどのような結末へ向かっていったのだろう。

 金は一九五三年、大阪府池田市で生まれた。母親が朝鮮の古典芸能の伝承者なので、金は在日朝鮮人二世だ。「十人兄弟の末っ子で、母親は四十二歳のときに、他の兄弟とは父親の違う子どもとして」金を産んだ。「そして三歳のときにポリオに罹り、それ以来、小児マヒの後遺症として全身麻痺障害者」となる。ここまでのところ、今流行の言葉で表現すれば、金はダブル・マイノリティの系譜に位置付けられることが分かる。(今年の秋に日本公開されたインド映画『マルガリータで乾杯を!』の主人公・ライラは、脳性まひに加えてバイセクシャルを持つというダブル・マイノリティの設定であることが話題を呼んだ。)そんな金の来歴、複数の多岐に渡る苦しみや抑圧については本稿では語りつくせない。だが、劇団「態変」の旗揚げ公演が行われた八十三年の前段にあった、金と障害者運動の交わりには触れておこう。

 彼女が十八歳で高校に入学した七十二年頃は、丁度青い芝の会の活動が活発化していく時期と重なった。七十三年八月、彼女は施設時代の友人を通じてグループ・リボンの会合に参加し、二回目でそこの副会長に抜擢される。このグループ・リボンは、関西に青い芝の会を作る準備組織として機能していた。同年十一月、金は優生保護法改悪阻止の集会に参加し、大阪から東京の厚生省前へも行くことになる。そこで、全国青い芝の会会長であった横塚とも言葉を交わしている。だが、七十八年に青い芝の会が解散し、障害者運動が分裂・拡散していく中で、彼女もまた新たな道を探していくこととなる。青い芝の先輩が「野垂れ死にの精神」と呼んだ自立生活を営む中で金は、「かねてから自分がしたかったができなかったこと、本当に身体がやりたがっていることだけ、しようと思った。そして、好きな音楽のコンサートとか、映画や、ダンスとかの舞台ものに行き出した」。ここに、舞台芸術家の小池博史が著書『からだのこえをきく』(二〇一三)の中で展開する持論、

「感覚」から発し、「悟性」へと至り、からだの深奥に落とし込んで造形化するアート

の、本質を押えた劇作家・金満里誕生の胚芽を見ることもできよう。「感覚」を取り戻した金は七九年十二月、「悟性」へと至るために沖縄へ向かう。彼女が二十六歳になったところだった。

 

 私は沖縄を訪れることで、その時の自分がおかれている状況、大きくいえば自分の社会的位置関係のようなものを、問い返したいと思っていたようだ。私の位置――それは、在日朝鮮人、つまり日本と韓国との中間に位置する存在であるということ。そして青い芝の混乱の中でも突きつけられた、自分が健常者と脳性マヒ者の間にいる、ということであった。