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『スピラレ スキップト』

一回飛ばしの批評です。 2013年、渋谷にある映画美学校にて開講された「批評家養成ギブス第二期(主宰:佐々木敦)」の修了生有志による、批評同人誌『スピラレ』のWEBサービスw http://spirale.hatenablog.com/ twitter@spira_le

【連作批評】「障害者と旅する」第六回 textたくにゃん

一流野球選手の身体の転回に観る全身まひ者(5)

 

  「大きな丸い物」と「噴き出す水」

 

 劇団「態変」の旗揚げ公演から、『水は天からちりぬるを』公演までの間には、四年弱の月日が流れている。その間、筋ジストロフィーを持つK君という団員の死があり、彼の「やるんやったら徹底してメジャーを目指せばええんや」という言葉に背中を後押しされて臨んだ、新宿タイニイ・アリスでの東京公演や、そんな彼の追悼公演が「取り壊される直前の吹田市民会館」にて行われたりしている。しかし、『水は天からちりぬるを』という作品に対して直截的に影響を与えたのは、金の妊娠・出産・育児という出来事だった。金が三十二歳になった一九八五年十二月十九日、帝王切開によって生まれた赤ん坊を金は「“里馬(りま)”」と名付けた。「音の感覚を大切にして、男っぽくもなく女っぽくもなく、日本らしくなく挑戦らしくもなく、日本語でも朝鮮語でも読みが同じ、という条件を選んだ」という。ここにも〈間性〉への意識が感じられる。そんな赤ん坊と「悪戦苦闘」する(金が全身まひ者だという事を思いだされたい。腕の力も大してないので、授乳一つとっても特殊な体勢を考案しなければならなかった)生活を経て、次のように述べている。

 一人で暮らすことも演劇をすることも、それまでの私にとってまったく想像もしないことだったが、子どもを持つ、というのはその中でも最大級のものだった。

「自分一人の身を張って生きることは、恐いもの知らずでキッパリしていて清々しくていい、と思っていた」金は、「自分の子さえ良ければいい、というエゴイスティックな感情」「を起させる子育てという」「社会悪だとさえ思っていた」経験を通じて、「私が私として生きるために必要で、そのために紡ぎ出してしまったもの」「自体には、良いとか悪いとかの注釈をつけようがない」という思想に至る。そして、金の作品にも大きな変化が起こる。それまで、「障害者が舞台の上から」「見る人を挑発していく、という傾向が強かったのだが、」「表現はもっと掘り下げられ、もっと内面的なものに変わっていく」。

 さて、いよいよ(3)の冒頭に引用した、『水は天からちりぬるを』の導入シーンを見ていこう。観客の手で上がった舞台の上で、服を脱いで鮮やかな色のレオタード姿になった役者たちは、「化粧をしだす」。これは金によると、「本来の自分にかえって楽しんだり遊んだりしているうちに、また色々なものを付着させてしまう、ということを表わしている」らしい。その後、この作品が向かった先の流れは、金の記述をそのままに引用させて頂く。

 そして今度は、透明の丸いボールに水をなみなみと満たし、それで顔の化粧を洗い落とす。最後には、舞台中央に置いてあった白い大きな丸い物から舞台全体に水が噴き出し、役者たちは水を得た魚のようにその水で潤い、喜びに興じながら、終いには潤いの源である白い物体までもを壊しだし、嬉しそうに去る。

ここで再び本稿は、『God Bless Basebll』(以下、『GBB』とする)の舞台へ視線を戻すことになる。『水は天からちりぬるを』(以下、『ちりぬるを』とする)と『GBB』の結末に、いくつかの共通項が見受けられるからだ。まず、目に見える物質としてのそれは二つある。「大きな丸い物」という個体と、「噴き出す水」という液体だ。『GBB』における「大きな丸い物」とは、舞台中央壁面上部に掛けられた「アメリカ」(もしくは「God」)を象徴する粘土で出来た物体である。それがクライマックスでは、ホースから「噴き出す水」によってボタボタと形状を崩しながら破壊されていく。一方の『ちりぬるを』では、「舞台中央に置いてあった白い大きな丸い物」から水が噴き出す。その点では、『GBB』とベクトルが真逆である。が、最終的には破壊される点は同じだ。また、噴き出す水は役者の化粧を「洗い落とす」。これは、『GBB』で「アメリカ」が粘土をボタボタと落としていくことと重なる。これらの親和性は、目に見えない物質(気体)=精神的テーマとしての共通項を携えている。それは、「創造と破壊」である。金は次のように述べている。

 この芝居には「人間のエネルギーはつまるところ創造と破壊の繰り返し」という私の信条が色濃く出ているが、こうしてみてみると、やはりこれは子どもを産んでしまったという実感がつくらせた芝居だとつくづく思う。

『GBB』において、「アメリカ」を破壊していく場面は、「ここからは未来の話」という台詞と共にわざわざセクションが明確化される。それは、「創造(/想像)」という営為を際立たせる演出だったのだ。そこには、「水」という、人間にとって欠かせない普遍的で流動性のある物質が重要な役目を果たしていた。もっともその「水」は我々にとっての「脅威」を表象していた。「ミサイル」や「原爆」、「放射性物質」を想像した観客は少なくないはずだ。日本と韓国は、それらの「脅威」から身を守るために、「アメリカ」という傘の下に佇んでいる。そこから飛び出した少女の国籍は明確化されていないが、彼女はホースから噴き出す水を一身に浴びてビショビショに濡れる。『ちりぬるを』において化粧を洗い落とす役者のような、「喜び」の表情こそはないが、だからこそ能動性がリアリティを持って観客の身体に迫っていた。

 ところで、『ちりぬるを』における「大きな丸い物」とは、具体的には何を表象していたのだろうか。金は次のように振り返っている。

 中央の丸い白いものはたぶん子どもに与えつづけるおっぱいであり、潤う水は、吸われつづける乳だろう。現にこの時の舞台では、おっぱいがパンパンに張り、舞台上でレオタードにおっぱいがにじんでいたほどだった。

目に見える物質として共通項を持った「大きな白い物」と「噴き出す水」だが、岡田利規と金満里による時代の違う作品においては、当然のことながらそれが目に見えない物質=精神的テーマとして表象するものは全く違った。しかし、それは見方を変えるだけで世界の捉え方が変わることを端的に示しているに過ぎない。肝心なことは、そんな創造と破壊を「繰り返す」ことだろう。「誰が止めようとしても、社会の「異物」として排除される存在は、世の中に産まれつづける」のだから。

 

  ゲームセット 

 

 『GBB』は、九月に初演が行われた光州(韓国)と十一月に行われた東京以外の都市での公演は予定されていない。しかし、チェルフィッチュの演劇は過去に海外ツアーを成功させるなど、世界の様々な都市で上演されてきた。前作『スーパープレミアムソフトWバニラリッチ』(二〇一四年)は、マルセイユ(フランス)、モスクワ(ロシア)、リオ・デジャ・ネイロ(ブラジル)、グアナフアト(メキシコ)、モデナ(イタリア)、更にドイツとスイスでは各三都市を回っている。そんなチェルフィッチュですら行っていない地域の一つとして、アフリカを挙げたい。実は、「態変」は初の海外公演を何とケニアで成功させている。時は一九九二年、『Heavenly Forest』という作品がナイロビの他、カカメガの盲学校のホールとキスムという地方を含めた三都市で行われている。その後の作品も、エジンバラスコットランド)、ベルリン(ドイツ)、クアランプール(マレーシア)、ソウル(韓国)などで度々上演されている。・・・そう、全身まひ者の金満里が主宰する劇団「態変」は、二〇一六年現在も精力的に活動していた。今年の三月には東京公演がある。チケットは既に販売開始されている。タイトルは『ルンタ(風の馬)~いい風よ吹け』である。去年公開された池谷薫監督の最新ドキュメンタリー映画『ルンタ』を思いだす。それは、抗議行動として焼身自殺する若者が跡を絶たないチベットの現在を映した作品だった。「態変」の『ルンタ』もチベット問題を扱った作品なのだろう。もっとも、主題がどこにあるのかは観てみなければ解らない。ただし、そこにはきっと「創造と破壊」の精神が息づいているに違いない。