『スピラレ スキップト』

一回飛ばしの批評です。 2013年、渋谷にある映画美学校にて開講された「批評家養成ギブス第二期(主宰:佐々木敦)」の修了生有志による、批評同人誌『スピラレ』のWEBサービスw http://spirale.hatenablog.com/ twitter@spira_le

【連作批評】「障害者と旅する」第八回 textたくにゃん

写真における作為/作意(2)

 

  映画『カメラになった男』にみる自意識の解体と再生

 

 今から二ヶ月前に公開した本連載の第一回において私は、自閉症(+知的障害)を持つアマチュアカメラマンの青年・米田裕二(以下、裕二くん)の写真を批評対象とし、彼の撮影スタイルを写真家・鈴木理策の方法論と比較することで、彼の写真における、『写真分離派宣言』(二〇一〇年)で言うところの「棘」について考察した。今回は、その論考の続編である。予告通り、裕二くんの写真を考える上で、写真家・中平卓馬について書いていく。本論で主に依拠するのは、ドキュメンタリー映画『カメラになった男』(小原真史作品、二〇〇三年)における中平卓馬である。その第一の理由は、裕二くんを世に知らしめたドキュメンタリー映画、『ぼくは写真で世界とつながる』(二〇一四年)と本作の親和性にある。本作は、大別すると二つの空間で構成されている。一つ目は、横浜の自宅とその近郊。そして二つ目は、旅先としての沖縄(本島と宮古島)だ。ここに、『僕は写真で世界とつながる』との決定的な共通項がある。まず、自宅と沖縄という空間構成。その沖縄へ行くきっかけにあった一人の青年の死が、それである。

 中平卓馬は昨年、七十七歳でこの世を去った。しかし、彼にとっての最初の死は、三十九歳だった一九七七年に起きているとも言える。急性アルコール中毒で昏睡状態に陥った彼は、逆行性記憶喪失をともなって息を吹き返した。この健忘症は、発症以前の記憶を思い出すことの障害である。健忘の程度には個人差がある。劇中、沖縄の地での宴会にてアラーキーこと写真家・荒木経惟と会話するシーンがあるが、アラーキーは次のようなことを言っている。

中平卓馬から記憶喪失について教えてもらったよ。嫌いなことは覚えてないのね。好きなことだけ覚えてる」

発症後の彼は、息子のことを小学生の頃のイメージで記憶しており、大人になった現在形の息子を認識することに難があったことも劇中では語られている。また、八三年に彼は失語症になり、言葉の大半を忘れてしまう。そのリハビリとして、彼は日記を付け始める。それから二十年後の二〇〇二年。彼は発症後約三度目に当たる沖縄来訪へと旅立った。その背景には、牧子剛という若いカメラマンの死がある。中平卓馬が初めて沖縄を訪れたのは七三年のことだったが、その時一緒にいたのが牧子だ。牧子とはその前に葉山で出会った。二人は意気投合したのだろう。劇中に出てくる中平のメモによれば、沖縄への旅の目的は「夢の具現化」である。だが、沖縄から帰った後のある日、待ち合わせしていた葉山のポニーというお店に、牧子が現れることはなかった。カメラを持ったまま転落したという。場所は海辺の岩壁だったのだろうか。何かを撮ろうとしていたのだろうか。いずれにせよ、中平卓馬にとって牧子の記憶は沖縄とともにある。中平卓馬が沖縄で写真を撮るということには特別なものがある。「夢の具現化」と書かれたメモには、次のような言葉もあった。

自意識の解体

このキーワードは、何も記憶喪失状態にある写真家が達した思想ではなかった。中平卓馬にとって「自意識の解体」とは、沖縄への期待感の中で既に浮かび上がっていたのだ。

 それでは、写真家にとっての「自意識の解体」とは、一体どのようなものなのだろうか。ここで、実際に中平卓馬の写真を見ていこう。現在、横浜美術館で開催されている「2015年度コレクション展第3期」では、「無名都市」という題名の写真作品セクションで米田知子らの作品と共に展示されている。「無題」となている写真群。撮影された年は一九六六~七三年である。繁華街の看板が目立つ建物や道行く人など、いわゆる街中の断片的な風景が白黒で写し出されている。それらは、「匿名性」を帯びた写真である。劇中、写真家・東松照明の「沖縄マンダラ」と題された写真展の記念シンポジウムにおいて、写真家・森山大道らとともに登壇した中平卓馬は、シンポジウムの「写真の記憶 写真の創造」という副題を取り上げ、次のように持論を展開する。

「写真はアメリカ語を使えば、クリエイションではなくドキュメンタリー」

つまり、中平卓馬にとって写真とは「創造」ではなく「記録」なのだ。だから、彼の写真は「匿名性」を重視する。作為はないのだ。作家の意図があるとすればただ一つ、「匿名性」を写真に宿らせることだけである。劇中の終盤、中平卓馬の著書『決闘写真論』から引用した言葉が、彼の声でナレーションとして挿入される。

「全く自らの意識を越えた存在」

彼にとって写真とは、「自意識を解体」することで撮られた「全く自らの意識を越えた存在」なのである。だが、それはもはや、「創造」と呼べる行為である。ここに、鈴木理策の方法論との共通項がある。それは、写真に“作為”をこめない“作意”である。とすれば、第一回と同様の論理で、裕二くんの写真が中平卓馬の写真と親和性があることは言うまでもない。前回、裕二くんの写真の“棘”だと考えた、彼の行動範囲の狭さは、「匿名性」という言葉でポジティブに表現することができよう。中平卓馬が横浜近郊、即ち自宅近郊の写真を残していることは、「匿名性」のための重要な要素である。例えば、「被写体である野良猫にいつしか彼が写真家であると認識されるようになった」、ということを語る場面が劇中にあった。これは、まさに彼がその土地に根差すことが、猫の写真に匿名性を帯びさせる要因であることが分かるエピソードである。裕二くんもまた、自宅近郊で写真を撮り続ける中で、京都府八幡市の被写体と特別な関係性を築くことに成功しているのだろう。

 ところで、中平卓馬は自分の名前に対してこだわりを見せる。劇中、何度も自分の名前の由来を語る。父が、「馬鹿者としては一点卓れている」という意味を込めて付けたのだという。彼がこの由来を執拗に語ることこそ、「記録」として写真を撮り続けることが唯一の「創造」であると、彼が暗に告げている証左である。と同時に、この思想が「馬鹿者」を最大限肯定していることは、特筆に値する。自閉症(+知的障害)を持つ裕二くんに対して、沖縄の被害者意識を打つ彫刻家・金城実は、「お前は馬鹿で天才だ」と言った。金城の言う「馬鹿」は、文字通り馬鹿にしているわけではない。知的障害者に対しての等身大の見立てである。何より、「馬鹿」であると同時に「天才」なのだという。この金城の裕二くんに対する批評と、中平卓馬が自らの名前の由来として語る、彼の写真家としての思想がぴったりと重なる。裕二くんもまた中平卓馬と同じ、「a little excellent foolishest man」に違いないのだ。