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『スピラレ スキップト』

一回飛ばしの批評です。 2013年、渋谷にある映画美学校にて開講された「批評家養成ギブス第二期(主宰:佐々木敦)」の修了生有志による、批評同人誌『スピラレ』のWEBサービスw http://spirale.hatenablog.com/ twitter@spira_le

【連作批評】「障害者と旅する」第十二回 textたくにゃん

生の芸術を廻って(4)

 

  『SELF AND OTHERS』にみる生(き)の芸術の「はじまり」

 

 演劇の、その舞台の始まり方は多様である。例えば、開演に先立つ注意事項を観客の前でアナウンスする人物が、そのまま演技を始めることでシームレスに舞台が始まるケースがある。ハイバイ『夫婦』(二〇一六年)では、作・演出の岩井秀人が舞台袖から現れたかと思うと、注意事項のアナウンスを行い、それが終わると携帯電話を取り出して台詞を言い始めることで舞台が始まり、そのまま最後まで役者の一人として出演していた(しかも物語の「語り手」の役目も果たす重要な役どころを演じていた)。また、例えば、登場した役者がわざわざ「始めます」などという台詞を言う、メタ的なケースがある。チェルフィッチュ『三月の5日間』(二〇〇四年)が、「それじゃ『三月の5日間』ってのをはじめようって思うんですけど、」という台詞から始まることは、もはや語りつくされてきた。しかし、何故これらの演劇は、わざわざこのような込み入った手順を踏むのだろうか。そこで、私たちは次のようなことを考えさせられる。そもそも物事の「はじまり」とは、いつ・どこにあって、何を示しているのか。それは、この世界の始まりを哲学的に解き明かそうとするカンタン・メイヤスー『有限性の後で』(二〇一六年)を読むことでも、一つの解答を得られる。だが、私たちが本論で知りたいのは、「生(き)の芸術」のはじまりだ。

 今野裕一郎が作/演出の、バストリオの野生Vol.02『SELF AND OTHERS』は、二〇一六年二月に3331 Arts Chiyodaの地下一階にある教室内で上演された。3331は廃校を再利用した文化・芸術の多目的空間であり、上演された教室というのはもともと理科室だったかもしれないくらいには広いものの、いわゆる昔ながらの学校の教室である。つまり、舞台と客席の明確な境目は無い。観客は、用意されている低めの椅子などに座り、目の前の空間を舞台と認識している。ということは、客席さえあれば、客席以外は舞台だと考えることができるかもしれない。劇場などでは確かに多くの観客を動員できるが、舞台と観客の間に明確な境界を引いてしまうことが、演劇の上演にとって何か弊害となる可能性もある。そうしたことへのオルタナティブが、前述したシームレスな上演やメタ的な台詞の導入なのかもしれない。だが、もっとも、このようなせり上がった舞台がない空間で行われる演劇作品もまた、珍しくはない。というか、演劇に限らず、例えば音楽のライブなどでも、飲食店や本屋などの一角で行う場合に、せり上がった舞台など無く、客席の目と鼻の先でアーティストが演奏している光景など、数知れない。つまり、そもそもせり上がった舞台があるかないかは、演劇に限らず、あらゆる芸術において、極めてプリミティブ(原初的)な形式美であるといえる。それを、お金が無くて仕方なくやっていて、観客がついてくれば舞台のせり上がった大きなところでやるんだろう、とツッコむこともできるかもしれない。だが、全ての観客がそのようにせり上がった舞台の上で行われることを望んでいるのとは違う。むしろ、演劇は敷居が高い、映画は価格が高い、ライブは体力がきつい、本は持ち運びが辛い、美術は偉そうなどと、あらゆる芸術に対するハードルを上げてしまった現代的な感覚を抱く観客にとっては、せり下がった舞台で行われる芸術こそが馴染む可能性が高いと、考えることの方が自然ではないだろうか。

 いずれにせよ、プリミティブな形式美は、「せり下がった舞台」によるものだけではない。客席の目の前の舞台と思しき空間には、既に劇中で使われるであろういくつかの小道具が設置されている。中でも注目したいのは、天井の左右二ヵ所から吊るされたマイクである。マイクスタンドに刺さったマイクではない。取り外しはおろか、高さの調節すらできない。もし、そのマイクに向かって役者が何か台詞を吐くようなことがあれば、背の低い役者は背伸びする必要がありそうだし、背の高い役者は・・・いや、高さの調節は上方へは行える。つまり、マイクを吊るしているコードは、柔軟なので、マイクかコード自体を手で持ってしまえば、背の高い役者にとっては問題なく使用できる。このマイクの効力は、単純に上下が逆転したものではない。肝要なことは、コードの柔軟性だ。これが地面に立ったマイクスタンドであれば、ぐにゃぐにゃすることはありえない。高さの調節は直線的におこなわれる。だが、天井から吊るしたコードであれば、そのコードの余分な長さの限りは非直線的に高さが調節できる。それはもはや高さの調節というより、三次元的な調節を可能にする。もちろん、有限ではある。天井からマイクまでのコードの長さを半経とした、半球体の面を描く弧の内側という条件がある。この条件下で、天井から吊るされたマイクが上演中にどのような働きを見せることになるのか、それもまたプリミティブな形式美に違いない。

 これまでの段階では、『SELF AND OTHERS』はまだ開演されていない(だがしかし、舞台は「はじま」っていたかもしれない。例えば、平田オリザが主宰する青年団の演劇においては、開場の時点から舞台に役者が立っていて、やはりシームレスに開演される。本作は役者らしき人物こそ舞台に立ってはいないが、開演前から舞台がはじまっていた可能性があるということは、この後明らかにしたい)。開演時間が差し迫った頃、開場時から「こちらの席も見やすくなっております」などと、場内係をしていた女性が、開演に先立つ注意事項をアナウンスし始めた。それが終わると、教室の照明が落ち、彼女が舞台から捌ける。次に、二人の役者が登場する。一人は、ギターを持った女性。そして、もう一人は、先程アナウンスをしていた女性ではないか。なるほど、役者でも、場内係の仕事をしなければいけないほどに人手不足の小さな劇団なんだな、と考えることもできる。が、そう穿った見方をするよりも、この純粋な驚きを新鮮な体験として、この演劇に望むのはどうだろうか。すると、驚きは連続する。彼女は、舞台の右側に敷かれていた真っ白い、一見して何の変哲もない布の横にしゃがんで、布の真ん中辺りに手をかざす。すると、その布の真ん中辺りが徐々に上方へと浮かび始める。どうやら、白い糸が結わいつけられていたようだ。その紐を引っ張ることで、布の真ん中辺りがゆっくりと上方へと持ち上げられていく。その結果、客席から見た布の形状は、まるで山のようになる。それは、例えば、二〇一三年に東京・小笠原諸島の遥か沖合に突如出現した西之島新島のような、隆起する大地を彷彿とさせる。舞台後方の壁面にテキストが映し出される。「0、オープニング」。舞台の左側で、もう一人の役者が、ギターの弾き語りを始める。立ったまま、はっきりとした発声で、歌い出す。

 

ひとつの生き物♪

・・・

崩れ始めた生き物♪

・・・

ひとつの生き物になれたら なれるなら♪

 

この演劇は、ある個体のその個体性を問う物語。ある個体がその個体になろうとする物語なのかもしれない。例えば、岡崎藝術座『イスラ!イスラ!イスラ!』(二〇一六年)が、ある島を主体とした語りを果たしていたように。だが、白い山は、最終的には彼女が糸から手を放すことで元通りになり、布は回収され、その役割を終える。彼女が去り、新たに三、四人の役者が舞台に躍り出る。彼らはガラス製の球体や一メートル大の流木、茶系の色をしたペニスに見えなくもない形の物体などの小道具を次々に置いていく。舞台の右端に立った男性役者が、徐にマッチを擦る。彼は、作・演出の今野裕一郎だろう。開演前から、関係者に指示を出していたし、実は舞台の右端手前のスペースで、ずっと音響や照明などの操作を行っていたことからも、間違いない。点いたマッチの火をまた徐に吹き消す。そして、火の消えたマッチはその場に捨てられる。マッチの残り香、焦げ臭い匂いが客席に漂ってくる。ここで注目したいのは、このマッチの効果よりも、彼の登場そのものである。本作品の出演者として、彼はクレジットされているわけではない。だが、彼はこの後も、度々舞台に出てきて、時には台詞も放つ。その台詞や彼の登場は舞台に馴染んでおり、必然的に感じられる。いわば、ここにもまたプリミティブな形式美がある。ハイバイ『夫婦』における岩井秀人のような、作者が役者としても出演することの自然さ。彼が役者なのか作者なのかという見立てが、もはやそこには不要に思えてくるほどの違和感のない存在感だ。背の低い男性役者が、右奥にあった黒板からチョークを手に取り、右奥から左手前の方へ、床に一筆書きで線を引く。これがゆるやかな波線である。そして、二ヵ所ほどでは、置いてある小道具の球体を囲むようにしてぐるっと円弧を描いて、また波線の主線へと続いていく。新たに女性の役者が登場し、天井から吊るされたマイクに向かって次のような台詞を言う。

昔ここに男がいた。男は外からやってきた。たくさんの土地へと移動しながら、いつしかわたしたちと歩き始めた。海や川のそばを移動した。風がふいていた。くうきが流れていった。彼との間にあった境界線はいつしか消えていた。彼女の中にあたらしい命があらわれた。やがて大きな円い湖のほとりに町ができて、人々は集まって一緒にくらしはじめた。この世界には内側と外側があって、ふと気付いたとき、彼は外側にいた

この台詞の中で述べられていることと、先程舞台の床にチョークで描かれた波線は関連している。まず、「円い湖」と、小道具の球体を囲む円弧が重なる。次に、台詞の中の男が、「たくさんの土地へと移動しながら」「外からやってき」て、最終的に「外側にいた」ことは、波線が直線のように秩序を持たず、そして円弧を描いたのちまた波線を続けていったことと重なる。視覚(記号)と聴覚(言語)の両面から訴えてくるこれらが表象するイメージとは何だろうか。どことなく不安定な世界像に感じられてしまうが、単に諸行無常をうたっているだけなのだろうか。前回引用した、ティム・インゴルド『ラインズ 線の文化史』において、は次のように述べている。

つまり徒歩旅行とは、場所なきものでも場所に縛られたものでもなく、場所をつくるものである。

先程の台詞をもう一度振り返ろう。「外からやってきた」「男は」「わたしたちと歩き始め」、後に、「町ができて、」最終的に「彼は外側にいた」。つまり、この男=彼は「徒歩旅行者」であり、彼の存在が町をつくりだしたのだという見方ができる。こうした「徒歩旅行者」がもたらすイメージに、「逍遥」という言葉を与えよう。それは、「気ままにあちこち歩き回ること」を意味する。逍遥性を持つ人間は、「場所をつくる」人間である。断章形式で構成される本作に、分かり易い一貫したストーリーは無い。しかし、むしろ様々な試みを通して、逍遥的に何か「場所」をつくろうとしているということが、「0、オープニング」で既に宣言されているのだ。その場所こそ、「生(き)の芸術」が生まれる場所ではないだろうか。

 さて、天井三カ所から吊るされた裸電球の内の真ん中の一つに、オレンジ色の灯りが徐々につく。後、役者全員の声で、「やがて彼は旅立ちました」と告げられ、役者の捌けた舞台は暗転する。舞台後方の壁面に、「1、不在」、「ひとりの写真家がいた」、「ひとりの映画監督がいた」というテキストが浮かび上がる。舞台に照明が戻り、先程の男性役者が登場する。彼は流木を見つめ、おもむろにその傍らに、横たわる。BGMに波の音が聴こえる。後、起き上がった彼は、舞台を横断するように引かれた波線の上を、つまり、波打ち際を辿るようにしてスキップ気味の歩調で舞台から去る。「1、不在」が終わると舞台は暗転し、後方壁面に、「SELF AND OTHERS」、「2、小山さんと砂川さん」のテキストが映し出される。舞台が明るくなり、小山さんと砂川さんらしき二人の女性役者が登場する。一人の女性が次のような台詞を言う。

「じゃあはじめます」

これは、チェルフィッチュ『三月の5日間』を彷彿とさせる。そして、確かに、ここから舞台は、台詞や振付に力が入っていくので、いわゆる「演劇的」な様相を帯びていき、観客の視線に耐えうるかのように思われる断章「10、さいごの風景」まで続いていく。しかし、「はじめます」と言うまでに、「0、オープニング」も「1、不在」すらも過ぎている。つまり、既に舞台は始まっているではないか。ここでもまた、観客は純粋な驚きを覚える。徹底して、定式的な「始まり」を無化する演劇だ。思い出すのは、第十二回早稲田文学新人賞受賞者であり、二〇〇八年に死去した向井豊昭の短編小説、『用意、ドン!』の後半に位置する一文だ。

この世界は、元々、「いきなり」なのだ。「用意」はいらない

決まった、始まりの地点(場所と時間)などないのだ。それは、決められたコースの無い、不安定な世界かもしれない。しかし、逆に言えば、それはあなた次第でどんな場所、どんな瞬間だって始まりになりうることを、端的に表している。その上で、私たちの考える「生(き)の芸術」のはじまりは、本作にあるということを、引き続きみていく。