『スピラレ スキップト』

一回飛ばしの批評です。 2013年、渋谷にある映画美学校にて開講された「批評家養成ギブス第二期(主宰:佐々木敦)」の修了生有志による、批評同人誌『スピラレ』のWEBサービスw http://spirale.hatenablog.com/ twitter@spira_le

【連作批評】「障害者と旅する」第十三回 textたくにゃん

生の芸術を廻って(5)

 

  『思い出し未来』にみる反復的な終演の技法

 

 前回の最後で、「生(き)の芸術」のはじまりを、引き続き『SELF AND OTHERS』にみていくと述べた。しかしながら残念なことに、恐らく今後『SELF AND OTHERS』へ本論の軸足を戻すことはない。その最大の理由は、前回の結論に由来する。それは、〈「はじまり」がどんな瞬間、どんな場所であっても成立する〉ということが、〈「おわり」もまた、どんな瞬間、どんな場所でも成立する〉ということを意味しているからである。すなわち、『SELF AND OTHERS』を軸とした批評に一旦の「おわり」が今、ここに到来したからである。敷衍すると、『SELF AND OTHERS』という作品だけに、生(き)の芸術の「はじまり」をみる事には当然無理があるという事実の発覚に他ならない。そして、「はじまり」だけに「はじまり」をみることもまた無理がある。何故ならば、「はじまり」は「おわり」を含んでいるからだ。まだ見ぬ「おわり」を見てこそ、生の芸術は起動する。(いや、一重に私の力不足である。しかしながら、「おわり」が到来したことの証明だけはさせて頂きたい。)

 天野天街が作/演出の、少年王者舘『思い出し未来』の東京公演は、二〇一六年三月に下北沢のザ・スズナリで上演された。本作の物語は、連続する場面展開よりも、言葉遊び的に連関する台詞によって浮かび上がり、まず進行してゆく。舞台の冒頭は、「終わらないで!」と連呼する一人の役者に対して、残る九人の役者が次々と〈「おわり」が基調のテキスト〉を口走っていく。その内容は、「終わったね!」「明日に飲み込まれる昨日」「下も上もない世界」等である。例えば、「明日」の「した」と「下も」の「した」の韻が踏まれている。かといって、終始がモノローグ調の演劇というわけではない。「明日が今日を食い破る」という台詞を最後になだれ込む、全役者が振付を合わせにかかる圧巻のダンスシーンも満載である。その導入で目を引くのが、舞台全体をスクリーンにしたプロジェクションマッピングの効果だ。そこに映し出されるのは、舞台がぐにゃりと歪む様である。奥の壁面の中央辺りに稲妻が走り、音響も気が付くとパキパキとしたビートを刻み、しかし、不穏な旋律の中で役者たちは、まるでダンスを観に来たのかと観客が思わされるほどに長い時間、ダンスしている。と思うと、奥の壁面の上部に、「中略」という文字が短く投影され、舞台はオレンジ色に染まり始め、ダンスも落ち着いていく。そして、役者たちが舞台から一人残らず捌けたところで、場内にアナウンスが流れる。「本公演はこれにて終了です」。明らかにまだ始まったばかりである。これで終わりだったら、時間的に短すぎる。観客の誰一人として微動だにしないことが、終演であるかのようにこうこうと照らされた場内を見渡すと目に入いってくる。このあと、照明は落ち、冒頭のシーンを繰り返しにかかり、本作は早くも一パターン目の反復を迎える。そう、この反復は一つのパターンに過ぎない。本作では、何種類かの反復が演出される。例えば、この「本公演はこれにて終了です」というアナウンスも、後半にもう一度行われる。ここで指摘しておきたいのは、本作には「おわり」が三回あるということだ。すなわち、前半と後半にあった二回と、いわば本当の終演を合わせた三回のことである。三という数字は、マルセル・デュシャンによれば、記数法において三以上の残りの数全てを意味する。それに倣えば、本作の終演は無数にあったと言えよう。前回引用した、向井豊明『用意、ドン!』の一文を、再び召喚しよう。

この世界は、元々、「いきなり」なのだ。「用意」はいらない

「はじまり」だけが「いきなり」なのではなかった。「この世界」が「いきなり」なのだ。「世界」には「はじまり」もあれば「おわり」もある。だがしかし、それでは「おわり」とは一体何なのだろうか。

 本作で表象される「おわり」もまた何種類かあるように思えるが、まずは、生命の「死」という「おわり」に触れたい。冒頭のシーンの繰り返しが終わると、どうやら本作には主人公の男がいることが明らかになってくる。その男は、何やら四もしくは五人いる(最大四もしくは五人の役者が舞台に立つ)。実は全員が同じ一人のその男であることが、SF的設定の元で説明される。それぞれ、別の時空間のその男らしいのだ。そのうちの一人が、絶えずピストルをポケットから取り出し、自殺する。二度目以降は、口の中に銃口を向けて行う。そう、この自殺もまた反復される。終盤まで随所で彼は死体となり、その度に少しずつ傷口に巻く包帯を巨大化させて帰ってくる。二度目の「本公演はこれにて終了です」アナウンスの直後、男はこう口にする。「死にきれなかった」。本作において死ぬこと=「おわり」は、簡単には訪れない。確かに、本作は約八十五分間で終わる。そうした、この世界を流れているらしい絶対的な時間に抗うべく、本作は徹底的にある種の鳥について考え始めてゆくのだった。その鳥の色は青だ。