『スピラレ スキップト』

一回飛ばしの批評です。 2013年、渋谷にある映画美学校にて開講された「批評家養成ギブス第二期(主宰:佐々木敦)」の修了生有志による、批評同人誌『スピラレ』のWEBサービスw http://spirale.hatenablog.com/ twitter@spira_le

【連作批評】「障害者と旅する」第十四回 textたくにゃん

生の芸術を廻って(6)

 

  『思い出し未来』にみる「おわり」と抗う「今日」

 

 演劇において、あるシーンを反復する演出をリフレインと呼ぶ。昨今では、ままごとやマームとジプシーといった劇団の作品の中で頻出することによって、技法として確立されているようだが、それらのリフレインはせいぜい数えられる程度の回数に留まっている。もちろん、リフレインの回数が多ければ良いというわけではないが、結論からいうと、本作のとあるリフレインは、何と十二回の反復を行う。初見でそれをしっかりカウントしていたのは私ぐらいのものだろう。本当にそのシーンは、十三回目で見事にそれまでと違う展開をみせ、次なるシーンへと移行していったのだ。それでは、一体何が十二回も繰り返されたのか。そこでの主題は、「幸せに口は無い=幸せは泣かない」というものだ。主人公の男たちが、一番未来の男に問う。「幸せって何?」「口はあるよね?」「じゃあ、泣かないの?」「きゅうりくらい食わせないと泣かないんじゃないの?」。これに対して、一番未来の男は、「口はない」「泣かない」「きゅうりってなんだよ!」と反論する。この調子の問答が、毎回微妙にディテールを変えながら反復される。そこには、役者の身体があるので、計算されている変化すらも自然な面白さとなってリフレインの強度を確固たるものにしてゆく。十三回目、大きな変化が起こる。「幸せが泣かないって断固として主張するってことは、お前が幸せなんじゃないのか?」この質問により、返答の質も変わる。「俺は幸せじゃない」。問いは続く。「じゃあなんだよ」。「不幸…かな」。幸せが何かは分からなかったが、不幸は分かった。それはこの男にとって、自分自身を意味する形容詞だった。なおも問われる。「不幸は泣かないの?」。ここで、男の感情は解き放たれ、「不幸が泣く」ことでこのリフレインは終わる。いや、終わらなかった。このリフレインが次の次辺りのシーンでまた始まるのだ。「幸せって何?」「口はあるの?」「じゃあ、怒らないの?」。喜怒哀楽の哀ではなく、怒の現出。今度ばかりは、十二回も繰り返されず、このあと、例の二度目の「本公演はこれにて終了です」アナウンスのシーンとなる。その直後、男は、「死にきれなかった」という台詞を吐くのだった。

 さて、このリフレインで幸せの正体こそは明示されなかったが、「不幸が怒る」というイメージを残された舞台は、冒頭のようなモノローグ調のシーンにおいて熱を帯びてゆく。そこでは、反復という手法をとる作品としては一転、「二度と取り返しはつかない」というテキストが採用されている。そして、五人目のその男の次の台詞を最後に、またしてもダイナミックなダンスシーンへとなだれ込む。

オレは、明日を食い破ってやる

抗戦の宣言。それはまず、今日が明日になることに対する抵抗だ。思い出したいのは、前回述べたように、本作の冒頭シーンが「明日が今日を食い破る」というテキストを最後に締められていることだ。本作が抗う、「おわり」は「死」だけではない。その最たるものは、「今日」の「おわり」である。そもそも、明日とはいつやってくるのか。それは、明日になれば分かる、と実は劇中に主人公の男の妻が言っていた。そのシーンでは次のような論理が展開される。明日になったら、明日はその時点で今日になってしまう。すると、その時点で明日は存在しない(まだやってきていない)。それでは、結局のところ、明日はいつやってくるのか。「明日は今日を」延々と「食い破る」のだ。このロジックは、劇中でも「無限地獄」と揶揄されるほどに、繰り返される日々の残酷さを物語る。そして、本作で「無限地獄」を体現しているものは、この十二回の反復を行うシーン=リフレインに他ならない。明日が来ない今日など、絶望の一日でしかない。つまり、主人公の男のリフレインからの脱出は、明日に今日を食い破られる前に、「オレ」=「今日」が「明日を食い破ってやる」必要性を説いているのだ。だが、一つ疑問が残っている。そもそも「明日」とは何か。これまでの文脈から考えると、それは「幸せ」という答えに落ち着きそうだ。何故ならば、「幸せ」への道筋は示されたが、「幸せ」が何かは明示されていないからだ。本作のタイトルから考えても、それは当然だろう。「思い出し未来」、つまり、明日=未来のことを思い出すことが、本作の至上命題である。

 ここで、生の芸術の「はじまり」を巡る本論の歩みを振り返ろう。まず、「はじまり」とは、「はじまり」と「おわり」を含意していた。その「はじまり」とはプリミティブな開演の技法であった。そこには、逍遥性が潜んでいた。一方、「おわり」とは、反復的な終演の技法であった。こちらの方が、「いきなり」と密接に関係していた。何故なら、「おわり」は終わることに抵抗を示し、リフレインを肯定するからだ。だが、そのリフレインが終わりを志向する時が来る。そこでは、「幸せ」とは何か?という命題が浮上する。この「未来」と同義の「幸せ」の正体を探らなければ、生の芸術の「はじまり」に必要なピースはそろわないのだ。そのためには次回、本作と同じく「未来」という語をタイトルに入れた、あの演劇作品にも力を借りることとなろう。