『スピラレ スキップト』

一回飛ばしの批評です。 2013年、渋谷にある映画美学校にて開講された「批評家養成ギブス第二期(主宰:佐々木敦)」の修了生有志による、批評同人誌『スピラレ』のWEBサービスw http://spirale.hatenablog.com/ twitter@spira_le

【連作批評】「障害者と旅する」第十五回 textたくにゃん

「障害者」と「健常者」の現在進行形(2)

  親元と喉元を離れた音楽は手元へ――『LISTEN リッスン』評 

 聾者と健聴者が共に生きるこの世界において、音楽は一体どこへ向かうのか。昨年日本でも公開されたフランス映画『エール』は示唆的だ。主人公の高校一年生・ポーラ以外、全員耳が聴こえないという設定のペリエ一家四人は、田舎町で酪農を営んでいる。物語は、彼女がコーラスの授業で歌に目覚め、最終的には親元を離れ、パリの『ラジオ・フランス児童合唱団』に入るまでを描く。それは、ポーラ役のルアンヌ・エメラが、2013年にオーディション番組で才能を見出され、実際に歌手として活躍してゆく状況とも重なっている。そんなポーラの歌声を劇中、ポーラの父・ロドルフが聴こうとするシーンがある。その時、彼が採った手段は、娘の喉元に手を当てて、彼女が歌う時に発する振動を感じ取ろうとするものだった。このあと、彼は娘が児童合唱団の試験を受けることを認め、家族は彼女が試験会場で歌う様子を観客席で見守る展開となる。そこで彼女は、国民的シャンソン歌手 ミシェル・サルドゥの「青春の翼」を、手話をしながら歌う。

ねえ パパとママ 僕は行くよ 旅立つんだ 今夜 逃げるんじゃない 飛び立つんだ

youtu.be

 さて、映画『エール』を通して、聾者が音楽を聴取するための方法には、二つの方向性があることが見えてきた。一つ目は、触覚によって「振動」から音楽を聴取する方法。二つ目は、視覚によって「手話」から音楽を聴取する方法である。だが、直ぐに思い当たるのは、「振動」や「手話」から聴取できたものが「音楽」である、という論理に対する違和である。第一に、健聴者にとって「音楽」は空気の「振動」だが、それは耳という高度な器官があってこそそのように聴こえるのであり、「喉元」の「振動」を「手」という「触覚」で感じ取るものとは異なる。第二に、「手話」が音声言語と並ぶ視覚言語として「言語性」を持つことは自明であるが*1、それが「歌詞」となって仮に「歌」を伝えられたとしても、「歌」という部分集合を含む全体集合の「音楽」までもを表現できるとは言えない。それでは、聾者は「音楽」を聴取できないのだろうか。確かに、健聴者が普段慣れ親しんでいる「音楽」を、同じように聴取することは叶わないだろう。しかし、聾者が聴取できない「音楽」を、それだけを「音楽」として考えることには疑問が残る。そこで、次のように考えてみたらどうだろう。そもそも、人は誰しも「音楽」を持ってこの世に生を享けている、と。それを聾者が、まだ「聴取」できていないだけとしたら。何故ならば、そんな聾者に「聴取」される「音楽」が、まだこの世に生まれてきていないのだから・・・。

 アートドキュメンタリー『LISTEN リッスン』の映像がまず教えてくれるのは、〈聾者に「聴取」される「音楽」の存在〉である。具体的に説明しよう。本作の共同監督である牧原依里と雫境(DAKEI)は(二人とも聾者であり)、日本手話に特有の「間」から、音声言語のそれとは別種のリズムを生み出せることに着目する。「間」を作る「動き」は、手の他に目や顎、顔の表情などを要素とする。結果としてそれは、〈手話に似た上半身のみの舞踊〉のように見える(「手話詩・サインポエム」とも異なる)。二人はこれを「聾者の音楽」として確立する過程で、舞踏家である雫境は元より、舞台経験のない牧原の友人などプロアマを問わない聾者に「演奏」を委ね、牧原はそれを撮影する。その映像が編集されサイレントとなり、本作が世に出たことで初めて、「聾者の音楽」は確立されたというわけなのだ。つまり、「聾者の音楽」という鳥は今ようやく、聾者の入った鳥かごから、健聴者にも「聴取」される可能性のある、「音楽」色が広がる空へと飛び立ったところだと言える。聾者も健聴者も、ただの「聴者」になることを、本作は願っている。

「LISTEN」(聴いて)、と。

 しかしながら、〈「聾者」に「聴取」される「音楽」〉は、手話にヒントを得た「聾者の音楽」のみに限定されないだろう。何故ならば、聾者の全員が全員、「手話」を獲得しているわけではない、という事実があるからだ。また、そもそも難聴者や中途失聴者のような存在にとっての「音楽」もまた異なるものであると考えられる。それでは、誰にとっても「聴取」される「音楽」は存在しないのだろうか。上農正剛は著書『たったひとりのクレオール――聴覚障害児教育における言語論と障害認識』(二〇〇三年)の中で、次のように述べている。

聞こえない子どもたちに「音楽」を示すことが出来る人がいるとすれば、それは音とは何か、音階とは何か、音程とは何か、リズムとは何かという学理的問題を根源的に考えているような音楽学の研究者や作曲家、あるいは音響楽や認知心理学、脳性理学の研究者かもしれません。あるいは、狭い音域の中で単純な音で構成されるエスキモー(イヌイット)やアイヌ等の民俗音楽やコダーイの音楽に耳を傾けるようなタイプの人、あるいは和太鼓打ちではないだろうか

大変に網羅的な考えである。ただあえて、この中には含まれない存在として、批評家・佐々木敦の例を挙げたい。佐々木は、そもそも、<「音楽」とは、最も純粋な「時間」芸術であるからして、そこに音が無かったとしても、その「出来事」に対する「体験」は「聴取」に成りえる>と、著書『「4分33秒」論――「音楽」とは何か』(二〇一四年)において論じている。そして、最終的にはこう述べている。

耳を澄ましたい時には、耳を澄ませばいいんです。

つまり、究極的には、「耳を澄ませ」ばそれは「聴取」となり、その対象は何であっても「音楽」になるのである。ただし、「耳を澄ましたい時」という条件が付く。その契機は人の内にも外にもあるはずだ。そして、その外からの契機の一つこそが、「LISTEN」(「聴いて」)という、本作が上げた産声なのである。

*1:例えば、文化人類学者のティム・インゴルドは著書『ラインズーー線の文化史』(二〇一四年)の中で、次のように述べている。

手話の例が示すように、言葉を見ることは言葉を聞くこととまったく同様に積極的、力動的、関与的になりうる。