『スピラレ スキップト』

一回飛ばしの批評です。 2013年、渋谷にある映画美学校にて開講された「批評家養成ギブス第二期(主宰:佐々木敦)」の修了生有志による、批評同人誌『スピラレ』のWEBサービスw http://spirale.hatenablog.com/ twitter@spira_le

【連作批評】「障害者と旅する」第十八回 textたくにゃん

ゲンロン批評再生塾第二期「道場破り」(第一回)

 

  「いま、ここ」から「いま、そこ」へ

 

 上北千明の「擬日常論」は、連載中の漫画2作品という最先端カルチャーを主な材料に、柳田國男から東浩紀までの近現代思想というスパイスをふんだんにまぶしながら、課題テーマ「昭和90年代の批評」で意識されている「現代が昭和の延長にある」という命題に対して、現代は「擬日常」(「日常の皮を被った非日常」)であるという主張をこねくりまわし、<自分の生きている「いま」「ここ」の時間の外側に、まったく異なる世界がありうるのだということ、日々感じている些細な不安が、なんて小さなものであるか>を明らかにする、まるで新しくミシュランの星が付く料理店の看板メニューのように思わず頬が落ちそうなほど完成度の高い批評文だ(実際、ゲンロンのバックアップによって商業誌への掲載が約束されたことを鑑みれば、あながち的外れな例えではないだろう)。

 美味しい料理がこの世に誕生したことは喜ばしい。料理人は大変な努力をしたに違いない。しかし、それがミシュランの星が付くような料理店の看板メニューであったとしたら、私たちの多くにとっては敷居が高い。もっとも、コンビニでミシュランの星が付いたラーメン店のラーメンを買って食べることができるように、上北の批評文はネット上で誰でも無料で読める。幸いなことに、私たちは大変に優れた社会に生きているようだ。いや、違う。ミシュランの星という「非日常」が、コンビニ商品という「日常の殻を被っている」のだから、このラーメンは上北のいう「擬日常」の象徴ではないか。であるならば、注意が必要である。私たちの世界には、<「いま」「ここ」の時間の外側にまったくことなる>ラーメンがあるはずだからだ。

 すぐに思いつくのは、ミシュランの星が付かない街中のラーメン屋で提供される750円前後のラーメンである。だが、それよりも消費されているのは、スーパーマーケットで売られているプライベートブランドの75円のカップ麺ではないだろうか。コンビニで売られているミシュランの星がついたラーメン店のラーメンは、トリュフ入りを謳って価格は何と6倍以上の498円である。実際のところ、私たちの多くは75円のカップ麺を基本とした生活を送っているはずで、例えコンビニで売られているとしても498円のラーメンを口にする機会は乏しい。要するに、上北の批評文の内容を肯定することは、それを取り巻く環境を批判することに直結する。それは、上北の批評文とはまったく異なる批評文の存在を明らかにするということを意味している。そんな批評文は、ゲンロンのお墨付きのようなレッテルも無く、ネットの海を揺蕩っているわけもないだろう。

 

 それでは、どこにどんな批評文が産声を上げているというのだろうか。上北が批評対象として取り上げた漫画2つのうちのメイン作品、『花と奥たん』の主人公である「奥たん」は、横浜のはずれにある「うるわしが丘」という郊外の町に住んでいた。上北は、この町が昭和の始まりとともに発展した「田園都市線」「東急東横線」「JR南武線」の近くに存在するという設定であることに着目して議論を展開している。そこでまず、「横浜のはずれ」という地理的条件へのこだわりを踏襲したい。すると、横浜市旭区上白根町という「横浜のはずれ」に、「ひかりが丘」という大規模団地があることに気が付く。「うるわしが丘」と同じ、「~が丘」というネーミングだ。最寄駅は、相模線「鶴ヶ峰」駅とJR横浜線「中山」駅である。相模線は1921年(大正10年)に開業しており、ほぼ昭和の始まりと重なる(JR横浜線は1908年(明治41年)開業なので、残念ながら昭和の始まりとは言えないが)。

 そんな「ひかりが丘」の西ひかりが丘商店街に、「カプカプひかりが丘」という喫茶店がある。ただの喫茶店ではない。ここは、1997年に「知的障害者」の地域作業所として開所し、その運営方針や人の魅力に注目が集まっている。今年の5月1日には『ザツゼンに生きる 障害福祉から世界を変える カプカプのつくりかた』というA4判の冊子が刊行されたほどである。この『ザツゼンに生きる』には、所長の鈴木励滋による「カプカプのつくりかた」という「カプカプ」の特色紹介文や、似顔絵のついた利用者一人一人の名鑑、開店16周年トークなど雑多なコンテンツが収録されている。批評と銘打たれている文章としては、劇評家・編集者 落雅季子の劇評があるくらいで、それよりも目立つジャンルは5つもあるコラムだろう。だが、この劇評で落が取り上げている演劇が興味深く感じられる。たかだか見開き2頁で2000字程度の文章が、一体どんな魅力を放つというのだろうか。

 

 「老いて登る青春の「山」――OiBokkeShiを観て」と題された落の劇評の批評対象は、岡山の劇団「OiBokkeShi」の新作『老人ハイスクール』だ。「廃校になった小学校を老人ホームに、観客を見学者に見立てて、」「新米介護士と先輩介護士」に導かれて「部屋を移動しながら観劇する」スタイル。落の描写が冴えるのは、おかじい(岡田忠雄)という名の88歳の役者が活躍する次の箇所だ。

 今回のおかじいは、校庭の段ボールハウスに住んでいる元ホームレス役だった。彼が新米介護士を、初恋の「みっちゃん」と間違えてはしゃぐ姿は、チャーミングでみずみずしい。アドリブらしき奔放な台詞も豊富だ。

 このシーンには、劇団名に込められているコンセプト「老い」と「ボケ」と「死」が凝縮されている。実は、みっちゃんは「もうこの世にいない」設定なのだ。落は、おかじいという役者が「人生と演劇の境界」を「薄」めつつ生きている姿に、「畏怖すら覚える」。その感覚は、2頁の間に掲載されている舞台の様子を写した3枚の写真の効果も相まって、読者である私たちにもリアリティを持って伝わってくる。

 それだけではない。この演劇には、『ザツゼンに生きる』全体に通底する、「カプカプ」の理念が体現されている。というのも、「老い」「ボケ」「死」は、「カプカプ」の利用者である「知的障害」と親和性があるからだ。「知的障害者」は、だいたい動きがとろいし、考えていることが意味不明だし、寿命だって長くない、と、思われている。本当はそんなことはないし(長くなるので理由は割愛する)、そうだとしても、それを受け入れられない環境の側に問題がある。だがそれは、箱物行政の推進を意味しない。そこで、「カプカプ」のように「雑然」とした場所を作ることが、一つのオルタナティブとなる。

 鈴木は、「カプカプ」のような場を「ゆるしゃば」と呼ぶ。「ゆるい」「こんなのじゃない世の中」という意味が込められている。そこで、彼は「障害」の乗り越え方として、「「違いをなくす」のではなく、「関係を変えていく」」ことを目指している。そんな「ゆるしゃば」作りのためには、「OiBookeShi」の主宰者・菅原直樹がコラム「演劇とロックンロールと認知症」の中で述べているように、「今この瞬間を楽しめる」ことに気付く必要があるだろう(流行のマインドフルネスの話を出すと胡散臭がられてしまうかもしれないが、端的にいえば“集中力”が大事だという考え方と通じるものがある)。演じることで関係性を変えるという試みは、「障害者」、いや、私たちの人生の中に、生きがたさと向き合う勇気を与えてくれるのだ。

 

 繰り返しになるが、上北の「擬日常論」は、<自分の生きている「いま」「ここ」の時間の外側に、まったく異なる世界がありうるのだということ、日々感じている些細な不安が、なんて小さなものであるか>を教えてくれるものだった。確かに「いま」、「ここ」とはまったく異なる世界がある。『ザツゼンに生きる』所収コラム、「開放し、抵抗する「そこ」なる世界へ」の中で最首悟(著書に『星子が居る』)は、次のように述べている。

 「ここ」は確定した場所であり、「あそこ」は人々が漠然とお互いに了解している場所である。「そこ」は確定も了解もされていない狭間で、ある人にとってはっきりしていても、他の人には見えなかったりする。しかし逆にその「他の人」が「そこ」と思っているところが「ある人」にはわからないかもしれない、そのような場所である。
(筆者中略)
それをそれとして名指しすることはできないが、にもかかわらず私たちが求めているという、万華鏡的であやうい、緊張した混沌の場所を「そこ」とかスペースと呼ぶことにしよう。

最首が「そこ」と呼ぶ、「緊張とした混沌の場所」は、上北の言う<「いま」「ここ」とはまったく異なる世界>であると言える。「そこ」へアクセスする手段として、「演劇性」が有効であるということを唱えているのが、『ザツゼンに生きる』とそこに掲載されている落雅季子の劇評である。

 そんな『ザツゼンに生きる』は、今のところ取次ぎを通さず販売されている。もちろん、WEB版はないし、神奈川新聞に取り上げられたくらいの認知度だ。つまり、『ザツゼンに生きる』は権威性のある商業性ではない。その中で落の劇評は、2000字程度ながら掲載媒体の核心となっている。鈴木は、「カプカプ」のような場が増えることが望ましいと語る。ゲンロンカフェとは方向性が異なるだろう。批評再生塾の開講をきっかけに、批評界隈が活気づき底上げされることはかけがえないし、そこから新しい才能が生まれることは申し分ない。しかし、それと同時に絶えず外部を意識しなければ、何より「雑然」とした場所は増えていかない。批評は、常に外部に立つ孤独な者による営みだからこそ雑多な要素を含み、多くの読者の胸を打つ。

 

 スーパーで売られている75円のカップ麺を食べる日常から、雑然とした街中のラーメン屋で750円のラーメンをすする日常へ。今日も「ひ・ひひょ」っていこう。

(本文:3981字)