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『スピラレ スキップト』

一回飛ばしの批評です。 2013年、渋谷にある映画美学校にて開講された「批評家養成ギブス第二期(主宰:佐々木敦)」の修了生有志による、批評同人誌『スピラレ』のWEBサービスw http://spirale.hatenablog.com/ twitter@spira_le

【連作批評】「障害者と旅する」第十一回 textたくにゃん

生の芸術を廻って(3)

 

  アール・ブリュット」の未来

 

 ここまで、二つの記録映像を通して、「アール・ブリュット」の現在と過去、すなわち、現状と課題について考察してきた。それは端的にいえば、「アール・ブリュット」という言葉が本来の意味から遠く離れたところで機能しており、その為に「障害」の有無に関わらず、「芸術」にとって弊害が発生している、ということだ。そこで、ここからは、「アール・ブリュット」の未来、すなわち、あらゆる「芸術」をアップデートするための展望を示したい。そこで、三つ目の映像作品である、ドキュメンタリー映画『まひるのほし』(一九九八年)を観ていく。「アール・ブリュット」の問題を解決する手がかりは、初期の「アール・ブリュット」の中にしっかりと映し出されているからだ。

 『まひるのほし』の舞台は主に三つ、兵庫県西宮市にある武庫川すずかけ作業所のアトリエと、神奈川県平塚市にある工房絵、滋賀県甲賀市にある信楽青年寮である。各々、主に知的障害者がアート活動を行っており、本作は彼らの作品や関係者を含めた風景を、井上用水の楽曲を交えながら映し出していく。冒頭、「はてない空 かげりのない雲」と陽水が歌い出す、一九七四年の楽曲「太陽の町」をBGMに、武庫川らしい川辺で何やらアート作品を制作している集団の、楽しげな様子を見せられる。本論で肝心なシーンは、早くもこの次にやってきた。それは、「兵庫県西宮市」とテロップが付され、駅前と思しき風景を捉えただけのワンカット。奥に駅舎らしき建物、その手前は車が行きかう道路なのだが、上空には高速道路がある。この高架の高速道路の形状に注目しておきたい。それは、円を描いている。画面右から走ってくる車が、円を描いてから左へ抜けていけるような、そんな立体交差した道路が画面上部にある。図形でいえば、「Ω(オメガ)」という記号をイメージして頂ければいいだろう。そんな、「兵庫県西宮市」の武庫川すずかけ作業所のアトリエ内で、一人の男が絵を描いている。舛次崇、通称・シュウちゃん。本作における武庫川すずかけ作業所パートの主人公である。彼は床に座り、右手に筆を持ち、目の前に敷かれた大きめの紙に向かっている。傍らには、主宰者の絵本作家・はたよしこが付き、シュウちゃんのドローイングを適度にフォローしている。本イベントのアフタートークで山上徹二郎が語ったところによれば、はたよしこの存在は大きい。彼女の愛情と熱意があったからこそ、武庫川すずかけ作業所のアトリエは成功していたらしい。また、作業員に限らず、関係者の男たちは皆、彼女に一目置いていたということだ。その意味で、はたよしこの言動をも収めた本作は貴重なのだが、私たちが第一に観るべきは、アート活動を行う知的障害者の言動である。観るべきというより、観てしまうといった方が正しいだろう。中でも私たちの目が吸い寄せられるのは、シュウちゃんの足もとである。一見して、彼は胡坐をかいている。その姿勢で絵を描くだけでも吃驚するが、その両足の柔軟性が尋常ではない。バレエや新体操の選手レベルに柔らかい両足は、もはや胴体から二本のアンテナのように左右に飛び出ているほどだ。ただ飛び出ているわけではない。胡坐の状態なので、当然その両足は立体的に交差している。・・・そう、このシュウちゃんの下半身を、真上(もしくは真下)から見た場合の形状は、駅前の高架道路と相似形の「Ω」だ。何という事だろうか。本作のまだ最初のパートが始まったばかりで、私たちは世紀の大発見を果たしてしまったに等しい。それは、第一に、「知的障害者」の「柔軟な下半身」について考えることが、「アール・ブリュット」を考える上で欠かせないということを、ほとんど直観的に示している。思い出すのは、記録映像『アール・ブリュットが生まれるところ』(二〇一四年)の第二話の主人公、西ノ原清香だ。彼女は、左手に筆を持ち、体育座りで、地面に敷かれたキャンパスに向かって絵を描いていた。彼女の下半身もまた柔軟なものだった。一見して、無意味に見える彼/彼女らの特殊な下半身。知的な障害を持つ人が絵を描くという時に、確かにその知性が絵に影響を与えているだろうことは否定しがたい。しかし、その知性は何を経由して作品になるのか。その道中には様々なものがあるだろう。筆や紙といった道具もそうだが、彼らの創作中の文字通りの意味での姿勢、すなわち身体があるということを、見過ごしてはならないのだ。第二に、「Ω」という形状そのものに、≪絵を描く時の「生命」の得とく≫が体現されている。イギリスの社会人類学者・ティム・インゴルドは著書『ラインズ 線の文化史』(二〇一四年)の中で、舞踊におけるエネルギーの流れは遠心的である、と述べながら、次のように続けている。

書は求心的であり、すべてのエネルギーは検問所――肩、肘、手首、指関節――を介して、無数の筆毛が紙に接触し、常に運動する筆先へと集中する。

シュウちゃんの「Ω」は、インゴルドの言う「求心的」な「エネルギー」の流れをそのまま表した形をしてやいないか。インゴルドの思想に倣えば、シュウちゃんの作品には、「生命」が得とくされていることは間違いない。絵を描く際の、「生(き)の芸術」の「生(せい)」は、「求心的」な運動体なのだ。

 「アール・ブリュット」作家の柔軟な身体とその形状について考えることは、これまであまり無かったことのように思う。だが、それは、「アール・ブリュット」の未来を切り開く一つの手がかりであるということを、『まひるのほし』は一九九八年の段階で私たちに教えてくれていた。それが、本作の監督である佐藤真の意図だったかは、今となっては誰にも分からない。何故ならば、彼は二〇〇七年に四十九歳の若さでこの世を去ってしまったからだ。それでは、私たちは、佐藤真が本作で映し出した「Ω」について、どのように思索を続けて行けば良いのだろうか。いくつかの道があるだろう。だが、二〇一六年二月現在、その道は一つしかない。佐藤真のドキュメンタリー映画作品の中に、「SELF AND OTHERS」というタイトルの映画がある。そのタイトルを意識的に自らの作品のタイトルに使用した演劇が、この度上演された。その演劇作品にもまた、「Ω」状の線描が印象的に使用されていた。記録映像・ドキュメンタリー映画を通して「アール・ブリュット」について考察してきた私たちは、ここで演劇というジャンルに向かうこととなる。もっとも、その作品は「演劇」というジャンルに留まらない舞台芸術であったことは確かであり、その意味でも「生(き)の芸術」として位置づけられることだろう。