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『スピラレ スキップト』

一回飛ばしの批評です。 2013年、渋谷にある映画美学校にて開講された「批評家養成ギブス第二期(主宰:佐々木敦)」の修了生有志による、批評同人誌『スピラレ』のWEBサービスw http://spirale.hatenablog.com/ twitter@spira_le

【連作批評】「障害者と旅する」第十六回 textたくにゃん

生の芸術を廻って(7)

 

  『子どもたちは未来のように笑う』にみるワークインプログレスという名の胎児

 

 演劇には、本公演とは別に、プレ公演やリーディング公演、公開稽古というものがある。それらは、演劇好きの人にとっては面白く、また、金銭的にも安く観られることから堪らないものだ。しかし、そこまで演劇好きでない人が自発的に観に行くことは少ないだろう。それでは、「ワークインプログレス」はどうか。そもそも、なんだ「わーく・いん・ぷろぐれす」って。普通に英訳したら、「仕事中」となる。確かに、役者も演出家も仕事中だろうよ、それとも普段は仕事意識ないって言うのか?・・・冗談はこれくらいにする。演劇における「ワークインプログレス」とは、「未完成の舞台ですけど、プレ公演のように多少ミスはしつつも真面目にやりますし、本公演よりお安くなっておりますから、何より皆さんの意見を聞いて本公演をより良くしていきたい一心で行いますのでどうかひとつ見て下さい、そんで本公演の内容は変わるかもしれないので今を見逃したら損するかもしれませんよ!」と言った感じである。冗談ではなく、正確な定義などないのだから、一先ずこれを信じて頂くほかない。ウィキペディアにもないのだから。さて、この定義の中で肝心なところは、言うまでもなく最後の部分である。プレ公演と違い「ワークインプログレス」には、〈本公演とほとんど変わらないかもしれないし、本公演と全く違うものかもしれない〉という偶有性があるのだ。この偶有性と似たものが演劇にあるとしたら、「再演」だろう。再演にも、過去の公演と同様のものを目指す場合と、変化が強調される場合があるからだ。しかし、再演には比較できる過去公演の内容があるのに対して、「ワークインプログレス」が比較できる未来の本公演の内容はまだない。この差異は、人生に例えると分かり易いだろう。いわば、再演とは、人がどう死ぬかという問いであり、「ワークインプログレス」は、人がどう生まれるかという問いである。人間が死ぬという事実は揺るぎなく、自明である。その上で人間に出来ることと言えば、どのように死ぬかだけである(それは長い目で見れば、どう生きるかということである)。翻って、再演は、常に過去の公演と比較されることに耐える覚悟を必要とする。一方、人間がどう生まれるかという事実は、そもそも生まれるまで「生まれる」とは言い切れないという、ややこしい話から始まる。分かり易くするために、母体が妊娠したところを想像してみよう。まず、生まれる前に流産する可能性がある。次に、無事に生まれたとしても、生まれたあとの赤ん坊の状態はどうだろう。親に全く似ていないかもしれないし、何か障害を持って生まれてくるかもしれない。つまり、本公演が生まれたばかりの赤ん坊だとしたら、「ワークインプログレス」は、妊婦のお腹の中にいる胎児のようなものだ。翻って、「ワークインプログレス」がどのように本公演に繋がるのかは全く未知数なのである。しかし、そこに一つの命が宿ったことだけは確かだ。「ワークインプログレス」を観に行くということは、妊婦さんを大事にするという姿勢と、非常に近しいのではないだろうか。

 遊園地再生事業団こまばアゴラ劇場の共同制作『子どもたちは未来のように笑う』は、二〇一六年三月に駒場東大前のこまばアゴラ劇場で上演された「ワークインプログレス」である。コンセプト・構成・演出は、遊園地再生事業団宮沢章夫だ。「コンセプト」という役職があることからも分かるが、本作には始めからテーマがある。それは、「妊娠」とか「いま子どもを産むということ」である。構成も明快だ。大きく二つ。前半は、「既存のテクスト(小説や戯曲、エッセイなど)を俳優個々が選び声にして読む」、後半は、「エチュードで作った短い劇」の連続である。まず前半は、舞台の一角に円環を為すように配された書籍に対して、周りを囲んだ十人の役者がカルタ取りをするように行われる。そこでは、十五冊のテキストが、振付の入ったリーディング公演風に読み上げられてゆく。石川達三『僕たちの失敗』に始まり、チェーホフの「三人姉妹」などの古典から、二〇〇八年に芥川賞を受賞した川上未映子『乳と卵』、「玉川病院 院長挨拶」のような非文学的なテキストや、プロ野球の名選手・監督であった落合博満の著書『采配』、はたまたアゴラ劇場の支配人かつ本作にも五人の俳優を送り込んでいる劇団「青年団」の主宰である劇作家・平田オリザの代表的な戯曲『東京ノート』、最後の一冊は佐野洋子『ふつうがえらい』で終わる。これらのテキストは、主にプレ稽古の段階で俳優が持ち寄った書籍の中から選ばれたことが、アフタートークで明かされた。そんなアフタートークの質疑応答では、宮沢のラジオを聴いて観劇に来たという女性から、「多和田葉子の『献灯使』(二〇一四年)に触れていたから、そういった原発関連の表現も期待していたが、どうなのか?」といった質問提起がなされる。それに対して宮沢は、原発事故の後、子どもを持つ母親が西へ行った例に触れつつも、作品の中でそれらをどう表現するのかは別問題であると返答していた。用心深い宮沢のことだ、絶対何か企んでいるがまだ表に出していないだけだと考えられる。むしろ、宮沢が第一に着目したのは、女優の山口智子が女性誌で「子どもを産まない」宣言をしたというニュースだという。それに対しては、役者の中で最年長の松田弘子が、「そのニュースを取り上げることもまた煽りであり、産まなかろうが産みたかろうが本人の自由なのだからそれは声を大にして言うことではないだろう」といったコメントをした。アフタートークのこれらの盛り上がりからも分かるように、「妊娠」とか「いま子どもを産むということ」は大変にホットなテーマであり、その点でも本公演へのフィードバックを重んじる「ワークインプログレス」として行われた本作は、このテーマに適していたと考えられる。

 そうした、テキストを巡る暗中模索の前半から、後半の怒涛の短い劇の連続へ移行する。そこでは、例えば男性役者三人が、『ひよこクラブ』にはこう書いてあったとか、胎児にノイズミュージックを聴かせるのは良くない、などの会話が繰り広げられる劇など、笑いを誘う良くできた短い劇が展開される。だが、肝心なのは明らかに一番最後の短い劇の内容だ。それはシリアスなものだった。バーで若い女性が、年配の女性と若い女性を待っている。やって来た二人が席に着くと、待っていた女性はオレンジジュースを注文しようとするが、年配の女性は「話って何よ」と口を開く。結局、三人とも注文を済ませてから本題に入るのだが、どうやら三人の関係は妹と母親と姉であり、妹は妊娠中であることが分かる。そして、姉は妹から既に話の内容を聞いているが故に、「早く言いなよ」と促す。そして、妹は訥々と告白する。検査で胎児の染色体に異常が見つかり、ダウン症の可能性があるという事を。姉は、「産みなよ」と主張するが、それに対して妹は同意しない。妹からどう思うかを問われた母親は、戸惑いながら次のように言う。

「カズオ君は何て言ってるの?」

旦那さんのことだろう。この「カズオ君」という台詞が、「家族」に聴こえたのは空耳だろうか。子どものことは旦那さんだけでなく、家族みんなで考えることが理想的だとしたら、それも自然な解釈になろうが、ここでは深入りしない。さて、ここで、舞台に残っていた店員の女性が唐突に口を開く。

「産まない方がいいよ」

プライベートな話に入ってこられただけでも迷惑だが、複雑な想いを抱えている妹は食ってかかかる。「あなたに何がわかるっていうの!」。店員の主張はこうだ。障害者は存在自体が迷惑である。何故ならば、自分には奨学金の返済があり、昼も夜も働いていて疲弊しているというのに、そんな私が何故気を遣わなくちゃならなくなる。かわいそうなのは私の方だよ、と。それに対して、妹は叫ぶ。

「障害者って言うな!二度と言うな!」

そして、最終的には次の宣言する。

「絶対に産んでやる!」

一方、ヒートアップした店員はこうも言う。

「堕ろせ、堕ろせ、堕ろせ!!!」

それに対して妹は、

「産む!・・・産む」

と気持ちを固める。だが、店員の女は次のように言い残して舞台は終わる。

「産める女はいいよ、産める身体を・・・」

多様化した現代社会においては、一見してありえなくはないと感じる物語かもしれない。しかし、決定的なところは、ダウン症だと分かっていながらも、産むという決意の表明にある。普通、人は自分にとって不利な選択はしない。とすれば、この妹にとっては、何かメリットがあっての選択だったのだろうか。しかし、何らメリットらしき要素はこの劇の中には示されていない。店員の女への対抗心だけで表明できるような決意ではないはずだ。故に、本作で妹がこのような決意を表明した理由は一つしか思い浮かばない。それは、山口智子に対するアンチテーゼである。アンチというよりは、パラレルな関係にあると言った方が正確だろう。山口が「絶対に産まない」女ならば、この妹は「絶対に産む」女なのである。たったそれだけのことである。松田のコメントのように、山口のような女性が存在するのと全く同列に、この妹のような女性が存在してしかるべきだ。だいたい、本作はコンセプトありきの演劇である。であるが故に誕生したのが、この妹のキャラクターに違いない。それが、中身がないからといって、感動を誘わないかと言ったら違う。例えば、平田オリザのロボット演劇などを思い出されたい。そしてここは、アゴラ劇場である。そういうことが起こる土壌であろう。

 だがしかし、「絶対に産む女」が誕生したことを喜んでばかりはいられない。本作は、店員の女の次のような台詞で終わっていたからだ。

「産める女はいいよ、産める身体を・・・」

この世界には産みたいのに、産めない女性もいる。更にいえば、男性の方に原因があるために産めない女性もいる(それでも二人は愛し合っているというケースだ)。こうして、例外的なケースを考えていくと、結局は不妊治療や遺伝子操作関連の科学技術の発展に期待するしかない、と思う向きも出てくるだろう。それも欠かせないのだが、「絶対に産む」女がこの演劇によって召喚されたことに、意義がある。と言うと、次のような可能性が先に想像されてしまう。それは、世の中がダウン症の子どもで一杯になり、経済が回らなくなるディストピアである。この観点に立つと、障害者の「労働力」を資本主義的商品経済下でどのように価値づけるか、という課題が発生する。そうした問題は、既に実際に考えられていることもまた確かであり、堀利和が編著の『障害者が労働力商品を止揚したいわけ』(二〇一五年)などにおいては、理論・実践的に解決の糸口が見えている。が、そうした難しい道を選ぶよりも、始めから障害者を産まない方が簡単だろうという考えが上回る。しかしである。「絶対に産む」女に対して、「絶対に産むな」と言える権利を持つ人は、本来この世に誰一人としていないはずである。経済が回らなくなろうが、それは二の次である。というのも、まず始めに保障されなければならないのは、胎児の人権だからである。そう、「絶対に産む」女の存在意義は、彼女が一人ではないという点にある。「絶対に産まない」女と比較してみると、その特異性が分かる。どういう事かというと、「絶対に産まない」女のお腹の中には胎児がいないからだ。何故なら、絶対に産むつもりがないのだから、始めから避妊しているはずだからである。そこで、「絶対に産む」女の語りの主体が、本当はその女ではなく、胎児にあるということが見えてくる。「絶対に産む」女は、胎児の声を聞いた代弁者に過ぎない。ここに、「絶対に産まれる」胎児が召喚される。この胎児に対して、「絶対に産まれるな」と言える権利を持つ人はこの世に誰一人としていないことは明らかである。ところが、そうすると今度は、胎児には法律上は人権が無い、という問題に辿り着く。、さあ困ったこと。そこで、「絶対に産む」女の出番である。「絶対に産まれる」胎児の人権を法律的にも握っているのは、「絶対に産む」女ただ一人である。ここに、「絶対に産む」女の真の存在意義がある。例え、経済が回らなくなろうが、「絶対に産む」女は正義である。彼女はただ、「絶対に産まれる」胎児の人権を守っただけだからだ。「絶対に産まない」女は、ただ自分の主義を主張し、実践しているだけに過ぎない、正義でも悪でもない存在である。だが、「絶対に産む」女は違う。彼女は、法の下に生きる、ただ一人の正義なのだ。故に、本作の妹の最初の状態である、「産もうか産まないか悩んでいる」ような女性のままではダメなのである。そんな女性に必要なのは、「絶対に産んでやる!」と叫ぶ契機なのだ。そして、それは「絶対に産まれる」胎児の代弁である。その声は、出生した存在である本公演やどのように死ぬか(生きるか)を考える再演でもなく、胎児的存在である「ワークインプログレス」でこそ、観客の耳に届くことだろう。