『スピラレ スキップト』

一回飛ばしの批評です。 2013年、渋谷にある映画美学校にて開講された「批評家養成ギブス第二期(主宰:佐々木敦)」の修了生有志による、批評同人誌『スピラレ』のWEBサービスw http://spirale.hatenablog.com/ twitter@spira_le

【連作批評】「障害者と旅する」第七回 textたくにゃん

「障害者」と「健常者」の現在進行形(1)

 

  映画『DOGLEGS』にみる現代人における強迫観念

 

 「障害者」、そして、「健常者」にとって、現代とはどのような時代なのだろうか。それは、今この時を世界でも有数の大都市・東京で生きる、人の心が端的に映し出しているのかもしれない。では、そんな人の心を誰がどうやって、私たちの目の前に曝してくれるというのか。私が出会ったその一人は、NZ出身のヒース・カズンズ。彼が五年の歳月をかけて撮った初の長編ドキュメンタリー映画、『DOGLEGS』がそれだ。

 一九九一年から二十五年間、東京を中心に活動している障害者プロレス団体がある。その名は「ドッグレッグス」。リングに上がるのは重度・軽度を問わない身体、知的、精神障害を持つ選手たち。その多様性は、プロレスにおける「見せ物」という要素を充分に担保している。しかし、中には癌や性同一性障害といった病気を抱える選手もいる。それもまた、「見せ物」としての面白みを増す要素にもなりうるが、彼/彼女らが「障害」以外の側面を前面に出していくことには、何か別の背景があるはずだ。そこに、時には健常者さえもがリングに上がる「ドッグレッグス」の本質があることを、『DOGLEGS』は知っている。

 本作では、中心選手であるサンボ慎太郎や愛人(ラ・マン)と並んで、中嶋有木という選手にも長い時間カメラが迫っている。彼はスクリーンに、重度の身体障害で近年はアルコール中毒となっている愛人の、介護者として登場する。だが、のちに彼もまたリングに上がる選手であり、癌と鬱病を抱えていることが明かされる。中盤、彼の自宅だろう一室で、鬱状態と思しき彼の姿が映し出される。その部屋はゴミ屋敷かと一瞬目を疑うほどに物で溢れかえっている。ゲームセンターの景品にあるような、キャラクターのぬいぐるみが目につく。彼は部屋の中央部で、そのぬいぐるみのキャラクターたちの父親となって、それらと会話している。

「お父さん、大丈夫かなー?」

その異様さは、介護をしている時のしっかりしていた彼の姿とのギャップによって、一層引き立つ。しかし、彼の台詞によく耳を傾けると、鬱病ではない私たちのメンタリティと、方向性は同じであることが分かる。詰まるところ彼は、「頑張らなくてはならない」という強迫観念に押しつぶされそうになっていたのだ。その後に出場した試合で、1R57秒TKO負けを喫した彼は、リング裏で対戦相手にケンカを売ってしまう。スタッフに止められるが、今度は自分を殴り出す。最終的には、「ドッグレッグス」代表の北島に、「そういうこと(TKO)もあるんだよ」と慰められる。中嶋が精神的に追い込まれ、取り乱す様子が明らかにされる。

 同様の強迫観念は、本作の主人公・サンボ慎太郎にも見受けられる。彼は普段、清掃員として働いている。そもそも本作は、池袋駅前の雑踏の中でゴミ拾いをしている彼をさりげなく映すシーンから始まっているのだが、彼がリングに上がり続ける理由が、彼の日常にあることを暗示している。ところで、彼はリングの上で健常者のアンチテーゼ北島に宣戦布告してから、二十年近く負け続けている。そして、自身の引退を賭けた試合でも負け、勝者が引退するという北島が決めたルールによって、あえなく現役続行を強いられる。実は、彼の引退が延びたことを一番残念がっているのは彼の母親だと思われる。実家で彼女に、引退することを彼が仄めかした際、彼女は彼が早く引退してくれたら嬉しいと思っていることを詳らかにする。そんな彼女が自宅で独白するシーンにおいて、彼女はサンボ慎太郎を育てた中での後悔を口にする。彼女は自宅でドッグトレーナーをしているようで、3、4匹の犬をしつけているのだが、そこでこんな台詞を口にする。

「(犬に対して)絶対おしっこしても叱りません」

「(サンボ慎太郎に対して)叱らないでやればよかった…」

子どもの適切な成長にとって、母親との関係が最も重要であることは、劇中でも嶋守先生が講義してくれるところだ。つまり、サンボ慎太郎が仕事でステップアップしてプロポーズも成功させたいと思うことや、リングの上で健常者であるアンチテーゼ北島に勝つことに固執する背景には、幼い頃から強いられてきた「頑張らなくてはならない」という強迫観念があることが分かる。

 さて、この強迫観念を主人公が克服する物語ならば、スクリーンは圧倒的なカタルシスを鑑賞者にもたらすだろう。だが、本作の主人公・サンボ慎太郎は最後まで健常者のアンチテーゼ北島には勝てない。想いを寄せる女性へのプロポーズも、介護者の予想通り撃沈する。であるならば、本作が伝えたいのは、「障害者は健常者には敵わないし、普通の幸せを手にすることも困難な存在なんですよ」、というメッセージになるのか。確かにそういった現実も忘れてはならないが、最も肝心なことは、負け続ける日々をどのように肯定して生きていくかということに尽きる。出来ないことが出来るようにならなければいけないと、本人が思っていたとしても、出来ないままで生きていく意義ある日々があるのだ。例えば、彼は仕事の中での試験には不合格となったが、二人一組でその仕事をすることが許可される。本人は、不合格となってお世話になったスタッフに対して申し訳のない気持ちで一杯なのだが、スタッフたちは彼に仕事を計らった上に、「終わったことは気にするな」と声をかける。また、引退を賭けた試合の直前、勝ち目はまず無いにもかかわらずサンボ慎太郎が勝った時のマイクパフォーマンスを考えていることに対して、アンチテーゼ北島は露骨に呆れてみせる。それでも、考えることを止めないサンボ慎太郎は、勝ち負け以前に自分の立場をただただ楽しんでいる。この時の無邪気なサンボ慎太郎の表情に、鑑賞者はハッとさせられる。彼らは、本質的には勝つためにリングに上がっているのではない。彼らは、強迫観念に駆られる日常を生き抜くために、非日常を必要としているだけなのだ。だから、リングの上で負け続けていたとしても、彼らは最高にカッコイイ。彼らを応援するファンがいる限り、彼らはリングの上では輝いていられる。そして、日常に戻った時でさえ、心優しい人が周りにいさえすれば何とかやっていけるのだ。

 

 *

 

 最後に強調しておきたいことがある。障害者も健常者も、分かり易く言えば大都市 東京に生きる我々全員が、「頑張らなくてはならない」という強迫観念に多かれ少なかれ迫られていることは述べてきた。しかし、その圧力が、もっぱら障害者や病人に対して強く負荷をかけていることを忘れてはならない。と同時に、であるが故に彼らにはリングという舞台が用意されているのだとも言える。確かに、社会的に弱い立場の人ほど将来が不安になる。だから、サンボ慎太郎がパートナーを欲しいと思うことは道理だ。愛人には素敵な奥さんと良い息子がいる。彼らのような家庭を築けたならば、それは幸せだろう。という風に思ってしまうのであれば、初心に帰ろう。即ち、やはりリングに上がることが近道だろう。代表の北島は著書、『無敵のハンディキャップ』の中で、次のように述べている。

障害者について思考停止状態になっている健常者たちにとって、理解し難い衝撃を与えるはずだ。これなら、障害者プロレスなら、固定化された障害者やボランティアのイメージを揺り動かすことができるかもしれない

一九九三年、天願大介監督が「ドッグレッグ」を撮ったドキュメンタリー映画、『無敵のハンディキャップ』から二十三年の月日が流れたというのに、また新たな映画監督の心を動かした「ドッグレッグス」。障害者プロレスの真価は、二〇一六年の今こそ問われているのだ。